第6話 会議室のドアの向こう
私はトイレを飛び出し、誰にも見られない場所を求めて非常階段の方へ向かおうとした。けれど、廊下の角を曲がったところで、水瀬先輩と鉢合わせた。
「……瀬戸さん」
先輩は私の顔を見て、瞬時にすべてを察したようだった。彼女は何も言わず、私の冷え切った腕をそっと引き、誰もいない会議室へと連れ込んだ。
重いドアが閉まり、遮音された静寂が二人を包む。その瞬間だった。私の心の中で、ずっと張り詰めていた糸が、乾いた音を立ててプツンと切れた。
先輩の前だとか、職場だとか、そんな体裁はどうでもよかった。
あふれる涙を止める方法を、私は忘れてしまった。喉の奥からヒック、ヒックと間抜けな嗚咽が漏れ、呼吸をするたびに胸が切り裂かれるように痛い。こぼれ落ちる涙を拭おうとすればするほど、体全体が激しく震え、堰を切ったように声にならない叫びが喉を駆け上がった。
「……ごめんなさい、先輩……ごめんなさい……っ」
私は床に崩れ落ちた。ただただ、泣き続けた。これまで誰にも見せなかった弱さも、絶望も、母への情愛も、すべてが涙となって溢れ出した。
先輩は、私が落ち着くまで何も聞かなかった。ただ黙って椅子の近くに腰を下ろし、私が泣き止むのを静かに待ってくれていた。やがて嗚咽が少しずつ治まり、私が荒い呼吸を整え始めたとき、彼女は私の隣にしゃがみ込み、ゆっくりと口を開いた。
「瀬戸さん。……あんた、今日まで本当によく頑張ったわね」
その声は、驚くほど温かかった。
「……あんたは、誰よりも真面目で、誰よりも優しすぎるのよ。でもね、これ以上誰かのために自分を削るのは、もう終わりにしなさい。頑張りすぎた自分を、自分で認めてあげないと、本当に壊れてしまうわよ」
先輩の言葉が、氷のように冷え切っていた私の心にじんわりと染み込んでいく。誰にも言えなかった言葉を、一番言われたかった人から言われた瞬間、張り詰めていた心がゆっくりと解けていくのを感じた。
「もう帰って。今日は誰にも会わなくていい。……自分のために、時間を使ってきなさい」
それは命令ではなく、先輩なりの精一杯の優しさだった。
私はふらつく足取りでオフィスを出た。けれど、家に帰る勇気はなかった。帰ればまた、母の冷たい沈黙と、私を息苦しくさせる空気が待っている。
あてもなく街を彷徨い、駅ビルの大きなウィンドウの前に立った。
そこに映っていたのは、泣き腫らして、見る影もなく憔悴した自分の姿だった。
表情なんて、どこにもない。そこにあるのは、誰かの言いなりになるためだけにすり減らされ、形ばかりを残して中身が消えてしまった、空っぽの器だ。私は自分の顔を見つめながら、それが自分であるという感覚すら抱けなかった。
「……私、一体何のために笑ってたんだろう」
唇が震える。佐藤さんの顔色を窺うための笑顔、母を安心させるための相槌。すべては私を殺すための行為だったのではないか。
ふと、その空虚な自分に重なるようにして、あるイメージが頭の中に鮮烈に浮かんだ。
誰の干渉も受けない、朝日の差し込む部屋。自分が好きなカップで淹れたコーヒーの香り。誰の評価も気にせず、ただ自分のためだけに使う時間。
それは、ただの憧れではない。これ以上、自分が消えてしまわないための、唯一の救命ボートだ。私はそのイメージを強く抱きしめ、誓うように握り拳を作った。
この空っぽな自分を、今度は自分の手で満たしてみせる。
そう決めた瞬間、ウィンドウに映る私の目が、ほんの少しだけ、前を向いたような気がした。




