第5話 崩れる調和
その夜から、家の空気は一変した。
私が「自分の時間を持ちたい」と告げた翌朝から、母は徹底した「無言の抗議」を始めた。朝食は並ばず、話しかけても母はまるでそこに虚無があるかのように、一切の視線を合わせない。そして、私が帰宅するたびに、背を向けたまま深く、重苦しい溜息をつき、空中に向かってこう呟くのだ。
「期待していたのに、本当に冷たい子になったわね」
それは、言葉の暴力よりも鋭く、私の心を抉った。母が放つ「あなたは私の愛を裏切った」という無言のプレッシャー。それは、子供の頃から私の首に巻かれ続けてきた見えない鎖を、より強く締め上げる感覚だった。
私は、またあの「いい子」の仮面を被り、謝ってしまいたいという衝動と、必死に戦っていた。そうすれば、すべてが元通りになる。母の微笑みも、穏やかな(ように見えた)日常も、手に入る。その甘い誘惑が、私の理性を毒のように侵食していく。
そして翌日の職場は、さらなる絶望の場所と化していた。
「あ、瀬戸さん。それ、今すぐやってくれる?」
佐藤さんが、私の机に山積みの書類を放り投げる。今まで以上に雑で、悪意のこもった手つきだった。
反射的に体が強張る。断れば、また母のような冷たい視線に晒される。けれど、ここで引いてしまえば、これまでの自分の奮闘がすべて無に帰す。喉の奥が引き攣るような恐怖を押し殺し、断ろうと口を開きかけた時だった。
「最近、定時で帰るために水瀬先輩に媚び売ってるんでしょ? でもね、勘違いしないで。あなたの代わりなんていくらでもいるのよ。……それとも何、一人前になったつもり?」
佐藤さんの言葉は、今の私に最も刺さる呪いだった。周囲の視線が、針のように突き刺さる。水瀬先輩は急なトラブル対応で席を外していた。
私は「自分を持とうとしただけ」なのに、周囲からは「生意気な異分子」として扱われている。私が一人前にあろうとすることは、この組織の調和を乱す罪なのだと、佐藤さんは突きつけてきた。
私はデスクを離れ、トイレの個室に駆け込んだ。鍵をかけ、便座に座り込んで膝を抱える。過呼吸に近い荒い息が、狭い空間に反響する。
家では母の沈黙、職場では敵意。出口のない迷路に迷い込んだような感覚だった。私はバッグからノートを取り出し、縋るようにページを開いた。しかし、滲む視界の先にあるのは、かつて自分を励ましてくれた言葉たちだ。今はそれが、私の無力さを責めているように感じられた。
『頑張れば、報われるんじゃないの?』
ノートの紙面を見つめながら、私は初めて、自分の道を選ぶことの残酷さを思い知った。誰かを傷つけず、誰にも嫌われずに自分を生きるなんて、そんな甘い道は最初からどこにもなかったのだ。
涙がノートの端に落ち、インクが滲む。それでも、私はペンを握った。震える指で、今のありのままの感情を綴る。
『怖かった。お母さんのあの無言が、佐藤さんの冷たい言葉が、私を押し潰そうとしている』
『でも、昨日の夜、私はお母さんに言えた。「自分の時間を持ちたい」って』
『結果はどうあれ、私は初めて自分の意思を、あんなに強い言葉で伝えることができた。それが、私のたった一つの盾になっている』
書くことは、祈りに似ていた。
現状は、何も変わっていない。母は相変わらず私を拒絶し、佐藤さんは私を排除しようとしている。けれど、ノートに「言えた」という事実を記した瞬間、胸の奥で小さな熱が生まれる。
私は一人じゃない。私自身が、私を信じてあげている。
ノートを胸に抱き、私は閉じた目蓋の裏で、いつか見上げたあの広い空を思い浮かべた。今はまだ嵐の中だけれど、私は、自分の足で立つためのレッスンを続けているのだと、自分自身に言い聞かせた。




