第4話 すれ違う親愛
職場での小さな勝利を胸に、私は定時でオフィスを出た。
佐藤さんの不満げな視線も、今は前ほど怖くない。自分の責任で仕事を終え、自分の意思で帰る時間を決めた。そんな当たり前の権利を掴み取った自分を、少しだけ誇らしく思いながら家路につく。
だが、玄関の扉に手をかけた瞬間、心臓が重苦しく沈み込むのが分かった。外でどれほど強くなれても、このドアの向こう側は、依然として「母という支配」が支配する領域だからだ。
「おかえり。今日は早いのね。どうしたの、何かあった?」
母がリビングから顔を出す。その笑みには、私への慈しみだけでなく、私の時間を自分のものとして消費できるという「安心感」が滲んでいる。
私は靴を揃えながら、努めて平坦な声で答えた。
「ううん、今日は自分の仕事を終わらせて帰ってきただけだよ」
私の言葉は、母の耳には届いていない。彼女の望む文脈に変換されて吸収されていく。
「そう……。まあいいわ。あなたが早く帰ってきてくれると、私も夕飯の準備が助かるし、何より一人じゃないから安心するわ」
母は満足げにリビングへ戻っていった。私はその背中を見つめながら、喉の奥がヒリつくのを感じた。
母は、私が「母のために」帰ってきたのだと信じ込んでいる。私が職場での理不尽と戦い、自分を守るためにようやく勝ち取った「自分の時間」を、母は当たり前のように「母の孤独を埋めるための資源」として回収していく。
その光景に、私は深い疲弊を覚える。どれほど私が自分を磨いても、母の目には「便利な娘」しか映っていないのだという絶望が、冷たい水のように胸を浸した。
食卓で、母が今日の近所での世間話や、テレビのニュースに対する不満を話し続ける。私はそれを聞きながら、黙々と箸を動かす。昔はこれが当たり前だと思っていた。母の話し相手になること。母の不安を埋めること。それが「いい子」としての私の義務で、そうしている間だけは、母も私を愛してくれたから。
「……ねえ、聞いてる?」
母の声に、意識が引き戻される。私が上の空で黙り込んでいることに気づくと、母はみるみるうちに眉を寄せ、不機嫌という名の武器を突きつけてきた。
「あなたが早く帰ってきたから、こうして二人でゆっくり話せると思ったのに。なんだか上の空ね。疲れてるの?」
疲れている。けれど、その疲労は仕事の重労働のせいではない。母の期待という重力に、私の心臓が押し潰されそうになっているからだ。これ以上、母の言葉という名の楔を心に打ち込まれれば、私は二度と自分に戻れなくなる。
脳裏に、ノートに記したあの言葉が浮かぶ。
『私は、私の人生を生きたい』
その人生の中に、母の孤独を埋めるための道具としての私は存在しない。
ここで黙れば、私は一生、母の影として生きることになる。心臓が嫌な音を立てて波打つ。喉が張り付くような緊張の中、私は残りのすべての力を振り絞って口を開いた。
「お母さん。……私、これからは、もう少し自分の時間を持ちたいと思ってるんだ」
その瞬間、食卓を支配していた母の独り言が止まった。
空間が音を失ったように静まり返る。母の箸が、ゆっくりと小皿の端に置かれた。その静寂は、まるでこれから起こる嵐を予感させる不吉な重圧を孕んでいた。母が顔を上げ、私を射抜くような鋭い視線を向けた。食卓の空気が、凍りついていくのが分かった。




