第3話 境界線の練習
ノートに自分の「頑張り」を書き出すようになってから、三日が過ぎた。
相変わらず佐藤さんの無茶振りは続く。ただ、彼女の態度は露骨だった。私の同期や、特に水瀬先輩に対しては、彼女は決して理不尽な要求をしない。先輩は、業務範囲外の依頼に対して表情一つ変えずに「それは私の管轄外です」と言い切る、鋭い刃のような人だからだ。
佐藤さんは分かっているのだ。誰なら言いなりになり、誰なら傷つけられるかを。そして、私は完全にその「ターゲット」として、彼女の勝手な都合という檻の中に閉じ込められていた。
その日の午後。案の定、佐藤さんが私のデスクにやってくる。その足音だけで、私の胃はぎゅうと引きつった。
「瀬戸さん、ごめん! これ、今からやっといてくれない? 会議資料なんだけど」
彼女の手には、終わりの見えない膨大な束の資料が握られている。時間は定時の二十分前。今から着手すれば、今日は確実に深夜残業だ。
かつての私なら、反射的に立ち上がり、「はい、分かりました」と笑顔を作っていただろう。波風を立てず、機嫌を損ねないことこそが、この職場での唯一の生存戦略だと信じていたから。
けれど、昨夜ノートに書いた文字が脳裏をかすめる。
『私は、私の時間を持っている』
心臓が早鐘のように鳴り響き、肺の空気が足りなくなる。逃げ出したい。謝って、受け取って、笑って終わらせたい。けれど、そうしたら、また明日も私は「誰かの付属品」として生きることになる。
私は、震える心臓をねじ伏せるようにして、ゆっくりと顔を上げた。佐藤さんの瞳を、ほんの数秒だけ直視する。それは私にとって、崖から飛び降りるような決死の覚悟だった。
「……申し訳ありません、佐藤さん。今日はこれ以上、業務を引き受けることができません。私の抱えている仕事の締め切りもありますので」
声は驚くほど掠れていた。手先が氷のように冷たくなり、自分の声がどこか遠くから聞こえるような感覚に陥る。
佐藤さんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を丸くし、それから見る見るうちに表情を険しくさせた。
「はあ? 私の仕事は、あなたの仕事より優先順位が高いのよ。そんなことも分からないの?」
怒声に近い言葉に、フロア中の視線が突き刺さる。胃のあたりが締め付けられるような、吐き気にも似た恐怖。――やっぱり、断らなきゃよかった。そんな弱気が、心の中でどす黒い染みのように広がっていく。
その時だ。私の隣の席から、椅子を静かに引く音が響いた。
「佐藤さん」
水瀬先輩の声は、氷を貼り付けたように平坦で、冷ややかだった。
「瀬戸さんの業務量、把握されていますか? 先週から彼女のタスクが集中していることは、チーム内で共有済みです。これ以上振るのであれば、課長を交えて業務配分の見直しを相談しましょうか?」
先輩は佐藤さんをただ真っ直ぐに見つめている。感情を排したその瞳の奥には、「これ以上彼女を追い詰めれば、あなたが面倒なことになる」という、揺るぎない無言の圧があった。
佐藤さんはバツが悪そうに、顔を醜く歪める。「……チッ、わかったわよ。自分でやるからいいわ」と捨て台詞を吐き、足音を荒らして自分のデスクへ戻っていった。
私はデスクに突っ伏した。怖い。死ぬほど怖かった。まだ手足が小刻みに震えている。
けれど、それと同時に、胸の奥で小さな、確かな「私」という炎が灯るのを感じた。それは決して消えることのない、熱を持った「自分」の証だった。
私が初めて、誰かに拒絶される恐怖を乗り越えて「NO」を言えた日。
帰り際、水瀬先輩は何もなかったかのように私の横を通る。その刹那、小さな声で彼女は呟いた。
「……勇気、出したわね。それでいいのよ」
振り返ったときには、もう先輩の背中は遠かった。
でも、その短い言葉が、私の心の中で温かく燃え広がっていく。
私は、自分の人生を歩き始めている。その確信が、冷え切っていた私の指先まで熱を伝えていく。
明日が少しだけ、楽しみに思えた。帰り道の空を見上げると、夜の闇は昨日よりもずっと優しく、どこまでも高く広がっていた。




