第2話 机の奥の沈黙
帰宅し、自室のドアを閉めて鍵をかける。カチリ、という金属音が響くその瞬間だけが、私にとって唯一の境界線だ。儀式のようにその鍵を握りしめ、そのまま扉に背を預けて座り込むと、全身の筋肉が溶けていくような感覚に襲われた。
電気をつけないまま、暗闇に沈む。息が、うまくできない。
職場では「優秀な若手」として隙のない振る舞いを求められ、帰宅すれば「理想の娘」という役割を演じなければならない。一秒たりとも本来の自分を呼吸させる場所がなかった。胸の奥がぎゅうっと収縮し、自分の心臓がどこで脈打っているのかさえ分からなくなっていく。
――あ、私、今、泣いているんだ。
頬を伝う冷たい感触に気づくのに、少し時間がかかった。悲しみではない。悔しさでもない。ただ、限界だった。張り詰めた糸が、音もなく切れた。制御を失った涙は、せきを切ったように溢れ出し、シャツの胸元を濡らしていく。拭っても拭っても止まらない。暗闇の中で自分の嗚咽だけが大きく聞こえ、私は自分がここまで擦り切れていたことを初めて自覚した。
「……そっか。私、もう、こんなに限界だったんだ」
誰に聞かせるでもなく、震える声が暗闇に溶ける。泣きじゃくりながら、視界がぼやける中で、ふと視界の隅に小さな影が映った。机の引き出しの奥、何年も開けていなかった場所に隠していた、あの一冊のノートだ。
学生時代、文具店でその深い夜の色をした表紙を見つけた瞬間、胸が締め付けられるように惹かれた。けれど、当時の私には使う勇気なんてなかった。もし見つかれば、「そんな無駄なものにうつつを抜かして」と、母の冷ややかな目が突き刺さるのが怖かったからだ。あの一家において、私の持ち物は常に母の検閲の対象だった。
私は這うようにして机へ向かい、引き出しをこじ開けた。震える指先でその表紙を撫でる。
私はページを開き、抑え込んできた黒い感情を、インクに変えて叩きつけた。
『最低。佐藤さんなんて、消えてしまえばいい』
『お母さんの言葉なんて、全部嘘だ』
殴り書きをした瞬間、美しい紙面を自分の毒で汚してしまったという自己嫌悪が津波のように押し寄せてきた。私は悲鳴を上げるようにノートを閉じ、床に投げ出した。自分の醜い本音を刻み込んだこのノートが、耐えがたいものに見えたからだ。
――もう、二度と開かない。
私はノートをゴミ箱に放り込み、布団に潜り込んだ。けれど、翌朝、ゴミ袋の口を縛ろうとしたとき、その角が見えた。
私は引き出しの奥に戻すつもりで、おそるおそるノートを拾い上げた。ページを開き、昨夜の殴り書きをもう一度見つめる。
そこに並ぶ言葉たちは、醜いものではなかった。腐りかけていた私の、切実な「本心」そのものだった。
その日の夜、私はペンを握り直し、震える手で二ページ目を開いた。昨夜とは違う。今度は、私を救うための言葉を書く。
『今日は、コピー機の前で泣きそうになった。だけど、最後までやり遂げた私は少し強かった』
『お母さんの言葉に反論したかったけど、耐えた自分は、立派だった』
誰にも見せない。評価もされない。役に立つわけでもない、私だけの記録。
頑張ったことを書くたび、心の中にへばりついていた冷たい氷が、少しずつ、熱を帯びて溶けていくのが分かった。
このノートは、私を裁く場所じゃない。私を拾い上げるための場所だ。
暗い引き出しの中で眠っていたこの紙の束は、今、迷子になっていた私という魂が、ようやく帰ってくることのできる「家」になったのだ。私はノートを胸に抱き、深く、深く息を吐いた。初めて、自分の呼吸が、自分の身体を満たしていくのを感じた。




