第1話 輪郭が削れる音
オフィスの蛍光灯は、今日も無機質に私を照らしている。フロアに響くのは、無機質なキーボードの打鍵音と、誰かが鳴らした保留音の電子音だけ。
「瀬戸さん、ごめん! 明日の営業会議の資料、部数分コピーして綴じておいてくれる? 私、これから打ち合わせ入っちゃって」
佐藤さんが、私のデスクにどさりとクリアファイルの山を置いた。
パソコンの右下の時計は、定時をすでに十五分過ぎている。私の今日の業務は、もうすべて終わっているはずだった。
「あ……」
断りたい。私だって、今日は早く帰って休みたい。けれど、喉の奥がキュッと締まって、息が詰まる。嫌われるのが怖い。空気を悪くするのが怖い。
気がつけば、私の口は反射的に都合のいい言葉を紡ぎ、顔には完璧な愛想笑いが張り付いていた。
「……はい、わかりました。やっておきます」
佐藤さんは「助かるー! さっすが瀬戸さん!」と軽い声を出し、足早に去っていく。
誰かの要求に応えるたび、私の中の「私」という輪郭が、少しずつ削られていく感覚がする。まるで、消しゴムをかけすぎたノートの紙面みたいに。いつの間にか私は、相手が望む通りの言葉を返し、相手が安心する表情を作るだけの、空っぽの器になっていた。
ぼんやりと資料を見つめていると、斜め前のデスクで水瀬先輩の背中が目に入った。
先輩は誰の顔色も窺わず、自分の仕事に誇りを持ち、やるべきことは完璧にこなす。でも、決して「都合のいい人」にはならない。あんなふうに立てたら、どんなに息がしやすいだろう。
私が羨望の眼差しを向けていると、先輩がふと顔を上げた。視線が交差する。先輩は、私のデスクに積まれたファイルと、私の引きつった笑顔を交互に見て、静かに目を伏せた。
それは同情でも軽蔑でもない。ただ静かに「あなたは、本当にそれでいいの?」と見透かされたような気がして、私は逃げるように視線を資料へと落とした。
職場を出て、重い足取りで最寄り駅へ向かう。
私の実家は駅から徒歩十五分。そこは私にとって、帰る場所というより、私の「正体」を隠すための仮面保管所のような場所だった。
ドアを開けた瞬間、母の匂いがした。煮物の甘い香りと、微かな線香の匂い。
「おかえり。遅かったわね。また佐藤さん? あの人、あなたに甘えすぎなんじゃないの」
玄関まで出迎えた母は、私の顔を見るなり眉をひそめる。靴を脱ぐ間もなく始まる、母の品評。私は反射的に、口角を上げて微笑む。
「ううん、そんなことないよ。頼りにされてるだけだから」
喉の奥で、自分でも嫌になるほど滑らかな嘘が転がる。リビングに入れば、テーブルにはすでに母の決めた夕食が並んでいた。私の好物なんて関係ない、母が「栄養がある」と信じて疑わない献立。
「さっさと座りなさい。冷めないうちに」
椅子に腰かけると、母は私の許可もなしに、私の一日の詳細を尋問し始めた。誰と話したか、何を食べたか、職場での評価はどうだったか。
私は、母が望む「いい子」としての返答をパズルのように組み合わせ、次々と口から吐き出す。会話の合間、ふと視線を落とすと、自分の手先が微かに震えていることに気づいた。
職場では佐藤さんの要求に、家では母の期待に。どこに行っても、私は自分自身の領分を奪われている。
「……ねえ、聞いてる?」
母の鋭い声に、心臓が跳ねる。逃げ場なんて、どこにもない。
職場も、この家も、私は誰かの持ち物になって生きている。私は再び完璧な微笑みを作り、母の言葉を飲み込んだ。そうして、私は少しずつ、世界の中で透明になっていくのを感じていた。




