↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
咲希という名の花を育てる物語 ~支配を脱ぎ捨て、私の人生を咲かせるまで~  作者: 灯野 しおん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/39

第8話 呪いのマニュアル

私が就職活動で内定を報告したあの日、母は私の手を取り、自分のことのように喜んだ。けれど、その喜びの瞳の奥には、ある種の「命令」が濁りとなって淀んでいた。


「咲希、本当によかったわ。これからは社会人ね。職場の人の話をよく聞いて、何があっても素直に言うことを聞くのよ」


母の指先が、私の手首を少しだけ強く締め付ける。それは祝福という名の、首輪をつける合図だった。


「仕事っていうのはね、自分を犠牲にしてでも、誰かの役に立たなきゃいけないの。嫌な顔ひとつせず、期待に応えるの。それが大人になるってことなんだから。……分かったわね?」


その言葉は、まるで憲法のように私の脳髄に直接刻み込まれた。否定する権利なんて最初から与えられていなかった。母の言葉に逆らうという選択肢は、幼い頃から私にとって「死」と同義だった。

私は反射的に背筋を伸ばし、「はい」と答えなければならない。喉の奥がヒリヒリと痛むような、あの従順な人形に戻るしかなかった。


職場でも、私はその「ルール」を忠実に守り続けた。

佐藤さんがどれほど理不尽な要求を突きつけてきても、心の中では「やめてほしい」と叫んでいるのに、口から出るのは「はい、承知いたしました」という傀儡のような返事だ。

私の心は悲鳴を上げているのに、母の顔が脳裏に浮かぶたび、本能が「我慢しろ」とブレーキをかける。私が我慢すれば、みんなの機嫌を損ねずに済む。そうやって自分を切り売りし、組織の歯車として、あるいは母の教え通りの「使い勝手の良い道具」として振る舞い続けた結果、私は誰からも大切にされない、ただの「便利な犠牲者」へと成り果てていた。


……私は、一体何のために働いているんだろう。


その夜、私は眠ることもできずにベッドの上で膝を抱えていた。暗闇が部屋の隅々まで染み渡り、昼間の会議室での羞恥心や、母の言葉が、万華鏡のように脳裏で回転し続ける。

佐藤さんの顔、先輩の冷ややかな視線、そして自分を縛り付けていた母の呪文。誰のために生きているのかも分からず、ただ壊れていくだけの自分が、どうしようもなく情けなかった。


私は、自分が必死に守ろうとしていたものの正体に気づいてしまった。それは職場の規律なんかじゃない。母という絶対的な支配者が敷いたレールの上で、「犠牲になることでしか、私は生きていていいと許されないのだ」という、歪んだ幻想だった。

母の言葉が、私の心臓を縛る鎖だったのだ。


もう、これ以上誰かのために私を削り取るのは終わりにしよう。

私の心と時間は、誰かの期待を満たすためにあるんじゃない。私自身を、今日よりも少しだけ好きになるためにあるのだから。

私は夜の冷たい空気の中で、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。それは、二十四年間で初めて、母の呪文を解いて吸い込んだ、私だけの自由な空気だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。