第8話 呪いのマニュアル
私が就職活動で内定を報告したあの日、母は私の手を取り、自分のことのように喜んだ。けれど、その喜びの瞳の奥には、ある種の「命令」が濁りとなって淀んでいた。
「咲希、本当によかったわ。これからは社会人ね。職場の人の話をよく聞いて、何があっても素直に言うことを聞くのよ」
母の指先が、私の手首を少しだけ強く締め付ける。それは祝福という名の、首輪をつける合図だった。
「仕事っていうのはね、自分を犠牲にしてでも、誰かの役に立たなきゃいけないの。嫌な顔ひとつせず、期待に応えるの。それが大人になるってことなんだから。……分かったわね?」
その言葉は、まるで憲法のように私の脳髄に直接刻み込まれた。否定する権利なんて最初から与えられていなかった。母の言葉に逆らうという選択肢は、幼い頃から私にとって「死」と同義だった。
私は反射的に背筋を伸ばし、「はい」と答えなければならない。喉の奥がヒリヒリと痛むような、あの従順な人形に戻るしかなかった。
職場でも、私はその「ルール」を忠実に守り続けた。
佐藤さんがどれほど理不尽な要求を突きつけてきても、心の中では「やめてほしい」と叫んでいるのに、口から出るのは「はい、承知いたしました」という傀儡のような返事だ。
私の心は悲鳴を上げているのに、母の顔が脳裏に浮かぶたび、本能が「我慢しろ」とブレーキをかける。私が我慢すれば、みんなの機嫌を損ねずに済む。そうやって自分を切り売りし、組織の歯車として、あるいは母の教え通りの「使い勝手の良い道具」として振る舞い続けた結果、私は誰からも大切にされない、ただの「便利な犠牲者」へと成り果てていた。
……私は、一体何のために働いているんだろう。
その夜、私は眠ることもできずにベッドの上で膝を抱えていた。暗闇が部屋の隅々まで染み渡り、昼間の会議室での羞恥心や、母の言葉が、万華鏡のように脳裏で回転し続ける。
佐藤さんの顔、先輩の冷ややかな視線、そして自分を縛り付けていた母の呪文。誰のために生きているのかも分からず、ただ壊れていくだけの自分が、どうしようもなく情けなかった。
私は、自分が必死に守ろうとしていたものの正体に気づいてしまった。それは職場の規律なんかじゃない。母という絶対的な支配者が敷いたレールの上で、「犠牲になることでしか、私は生きていていいと許されないのだ」という、歪んだ幻想だった。
母の言葉が、私の心臓を縛る鎖だったのだ。
もう、これ以上誰かのために私を削り取るのは終わりにしよう。
私の心と時間は、誰かの期待を満たすためにあるんじゃない。私自身を、今日よりも少しだけ好きになるためにあるのだから。
私は夜の冷たい空気の中で、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。それは、二十四年間で初めて、母の呪文を解いて吸い込んだ、私だけの自由な空気だった。




