第34話 静寂という名の報酬
翌朝、リビングに足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷たい空気が私を包んだ。
母はいつも通り黙々と朝食を用意していたが、その背中は昨夜の激昂が嘘のように、小さく萎んでいるように見えた。父は新聞を盾のように掲げ、私を一瞥すらしなかった。彼らの空気感には、昨夜の私の宣言を「一時的な発作」あるいは「甘えによる反抗」と見なし、朝になれば私が青ざめた顔で泣きつき、謝罪に来るはずだという、根深い誤解が漂っていた。
「おはようございます」
私は努めて穏やかに、いつも通りの挨拶をした。
母が動きを止め、何かを期待するように振り返る。だが、私は彼女が縋るような言葉を紡ぎ出す前に、先手を打って微笑んだ。
「今日も美味しい朝食をありがとう」
その丁寧すぎる感謝の言葉は、彼らの「支配の物語」を強制終了させるスイッチになった。母は何かを言いかけて飲み込み、父は新聞紙の端をぐしゃりと握りしめた。私が彼らの想定する「可哀想な、弱々しい娘」を演じないことに、彼らは戸惑っているのだ。
食卓には、重苦しい沈黙が横たわっていた。しかし、それはかつての私を縛り付けた「気まずい沈黙」ではない。私はその沈黙を、自ら作り出した「適度な距離」として心地よく受け入れていた。
もう私は、彼らの機嫌を取るために無理な話題を探す必要はない。ただ静かに食事をし、ただ必要な言葉だけを告げる。それは、毒を吐き出す両親に対して私が提示した、冷徹なまでの境界線だった。
玄関で靴を履いているとき、背後から母の声が背中を叩くように響いた。
「……咲希、昨日のことは、なかったことにしてもいいのよ。あなたも仕事で疲れていたのよね。お母さん、もう水に流してあげるわ」
私はゆっくりと振り返った。そこにいたのは、娘を操りたがる人形遣いの姿。私は、心の底からの穏やかな微笑みを彼女に向けた。それは、もうあなたたちの言葉は私には届かないという、静かな決別だった。
「ご心配をおかけしました。でも、私は元気ですよ。昨日の言葉も、今の気持ちも、全部私の本心です。……行ってきます」
扉を閉める瞬間、母が「……そんなはずは」と、空を掴むような声で呟くのが聞こえた。
駅へ向かう道すがら、私は初めて「自分の足音」が鮮明に聞こえることに気づいた。
いつもなら、母の小言や、今日何を言われるかという強迫観念が頭の中を支配し、耳の奥で耳鳴りのように響いていたのに。今日は違った。
空が青い。風が、頬を撫でていく感触が心地いい。
会社に着いたら、まず何から始めようか。あの物件の初期費用を振り込むために、どの銀行に行こうか。そんな「自分のための予定」だけが、頭の中を埋め尽くしている。
仕事に向かう私の足取りは、羽が生えたように軽かった。以前の私にとって、仕事は「母に認められるための手段」か「母に咎められないための免罪符」だった。でも今は違う。仕事は、私の人生という城を支えるための、確固たる「基盤」だ。
水瀬先輩と職場で顔を合わせたとき、先輩が私の表情の変化に気づき、そっと微笑んだ。
「何か、いいことあった? 雰囲気が、ずいぶん柔らかくなったわね」
私は深く頷いた。
「ええ。今日から、新しい私として生きることにしたんです」
先輩は多くを問わず、ただ「そう、それなら何よりね」と、温かいコーヒーを差し出してくれた。その優しさが、今の私には何よりも染みた。
仕事のパソコンを開く。画面に映る数字や文章の一つひとつが、母の支配とは無関係な「私の成果」として積み上がっていく。
今日の私は、誰の許可もいらない。
誰の顔色も窺わなくていい。
自分の責任で、自分の未来のために働く。そのことの、なんと贅沢で、なんと素晴らしいことか。
私はキーボードを軽やかに叩き始めた。
母に支配されていた自分を殺し、新しい私を産み落としたその日から、私の世界は驚くほどシンプルで、かつてないほど美しい色に満ちあふれていた。私は、自分で選んだ明日へ向かって、確かに歩き出している。




