第33話 幼き日の私へ
次の日の夜、私は机の上に二冊のノートを並べていた。
一冊は「夜色のノート」。二十三歳になって、母の支配という名の狂気に初めて名前をつけ、自分の心がどこで壊れたのかを必死に書き出した、私を覚醒させてくれたノート。表紙は使い古され、ページはあちこちが折れ曲がり、その一文字一文字には、私の血と涙がこびりついている。最後の方にはもうほとんど隙間がなく、私の二十三年間分の孤独が、この小さな紙束の中に凝縮されていた。
そしてもう一冊は、「桜色のノート」。これから始まる、私が私として生きるための未来を記す新しい地図だ。
夜色のノートをめくると、ページから当時の切実な叫びが聞こえてくるようだった。そこには、母への怒りだけではない。誰にも言えなかった「寂しさ」や、見ないふりをしてきた「諦め」が、ありのままに綴られている。
そうやって過去と向き合っているうちに、私はふと、もっとずっとずっと幼い頃の自分を思い出していた。
お母さんが決めた服を着て、お母さんが選んだ習い事に通い、「いい子ね」と頭を撫でられるたびに、どこか冷めた心でそれを受け入れていた、あの頃の私。本当はもっと泥だらけになって遊びたかったのに、汚れることを極端に嫌う母のために、いつも綺麗な服のまま静かに座っていたあの日々。
夜色のノートに綴ったのは「大人の私の葛藤」だったけれど、その根底には、ずっと幼い頃から消せなかった「本当の私」のすすり泣きが、ずっと眠っていたのだ。
私は桜色のノートを開き、そこに新しい言葉を重ねる。
【二十四歳の誕生日をむかえて(追記)】
『……そういえば、ずっと忘れていた。
小学生の頃、学校帰りに道端で拾った綺麗な石を、家に持ち帰ろうとして、結局は植え込みに捨ててしまったこと。
「そんな汚いもの、持ってこないで」という母の冷ややかな言葉が怖くて、私は自分の宝物を手放したんだ。
あの頃の私が、ずっとずっと長い間、私の中で泣いていたんだね。
ごめんね。今まで一人にしておいて。ずっと、ずっと守ってあげられなくて。
でも、もう大丈夫だよ。
これからは、私があなたの代わりに、綺麗な石を拾いに行こう。汚れてもいい服を着て、泥だらけになって、自分の好きなものを、誰の許可も得ずに集めよう。あの頃のあなたが見たかった景色を、全部見に行こう。
私の物語は、昨日から始まったんじゃない。
もっとずっと前、あなたが小さかったあの頃から、ずっと続いていたんだ。
やっと、その物語の続きを、自分で書き始めるね。
今まで耐えてくれて、私という存在を繋いでくれて、本当にありがとう。』
ペンを置くと、胸の奥で小さな子供が「やっと会えたね」と笑い、私の手を取ったような気がした。
もう、私は私を裏切らない。
二十三歳になって、このノートを開いたあの日の私。必死で自分の心の傷を言葉にしようとあがいたあの時の私がいたから、今の私がある。これまでの葛藤も、幼い頃からの我慢も、すべてはこの瞬間のためにあったのだ。
この引っ越しは、単なる転居じゃない。私という人間を、本来の姿に戻すための「大人の帰還」なのだ。
私は、ほぼページが埋まった「夜色のノート」を静かに閉じた。
それは私の魂を救い出してくれた恩人。そして、広大な余白を抱えた「桜色のノート」を開く。
これからこの余白を、母の言葉ではなく、私の足跡と、私が選んだ喜びだけで埋めていく。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
私は、新しいノートの最初のページに、まだ誰も知らない、私の新しい名前を呼ぶように、小さく笑った。




