第32話 私、お誕生日おめでとう
部屋の鍵をカチリと閉めると、ようやく私だけの聖域が完成した。
背後のリビングでは、母のわざとらしい啜り泣きと、父の威圧的な叱責が、壁越しにぼんやりとくぐもって聞こえてくる。けれど、今の私にとってそれは、海の中を泳ぐ魚が聞く遠い雷鳴のように、もう私を傷つける力を持たない。
私はバッグから、この間新調したばかりの「桜色のノート」を取り出した。
これまで書き溜めてきた黒いノートが「痛みを殺すための沈黙の記録」だったとしたら、この桜色のノートは「私が私であることを祝福するための未来の種」だ。私はペンを手に取り、新しいページに、一文字ずつ丁寧に言葉を綴る。
これは、誰のためでもない。私から私へ、初めて贈る愛の言葉。
【二十四歳の誕生日をむかえて】
『お誕生日おめでとう、咲希。
今日まで、本当によく頑張ったね。
誰の期待に応えることもできず、自分の心に嘘をつき続け、自分の殻の中に閉じこもって、息を殺すように生きてきたあの日々。
鏡を見るたびに、鏡の中の自分ではなく、背後にいる母の顔色を探していたあの頃の私に、今日の私から教えてあげたい。
あなたは、もう大丈夫だよ。
あなたはもう、誰にも支配されない。自分の足で立ち、自分の力で、その先の未来を選び取ろうとしている。
あの日の絶望も、誰にも言えなかった悔しさも、すべて今日の私という人間を形作るための、大切な、そして愛おしいピースだった。
今日からは、私が私の一番の理解者であり、一番の味方になる。
私の機嫌は、私が取る。私の幸せは、誰かから与えられるものではなく、私が自分の意思で決める。母の支配も、父の威圧も、もう二度と、私の人生という物語の主導権を奪うことはない。
さあ、新しい一年が始まる。
南向きの窓から差し込む朝の光を、ベランダに広がる広い空を、淹れたてのコーヒーの香りを、これから私は一つずつ、私のためのものとして手に入れていく。
誰のものでもない、私だけの物語を始めよう。
今日という日に、心からの祝福を。
お誕生日おめでとう、咲希。』
書き終えた瞬間、胸の奥でずっと重く凍りついていた何かが、ふう、と溶けていくのを感じた。
ノートの紙面を見つめる瞳は、もう涙で濡れていない。ただ、真っ直ぐに、これから歩むべき現実の未来を見据えている。
私はノートを胸の前に抱きしめ、静かに目を閉じた。
窓の外から聞こえてくる街の喧騒は、もはや私を縛る鎖ではない。それは、これから私が飛び込んでいく、広大な自由の予感だ。
私は、私という城の鍵を、しっかりとこの手に握りしめている。
準備期間はあと少し。
私は、最後の日まで、この家で「穏やかな娘」という仮面を被り通すだろう。
両親が私を育ててくれたことへの、最低限の礼儀として。そして何より、これが私の最後の大人の振る舞いとして。
夜の帳が降りる中、窓の外で街の灯りがキラキラと瞬いている。
その光のひとつひとつが、まるで私を祝福するために灯っているみたいだ。
私はゆっくりと息を吐き出し、桜色のノートを大切に、バッグの奥深くへとしまった。
私の人生の、本当の夜明けは、もうすぐそこまで来ている。




