第30話 冷めた食卓と叫ぶ二人
私が「家を出る」と言った瞬間、食卓の温度は一気に氷点下まで下がった。
父の表情が、驚愕から不快感、そして私を屈服させようとする支配欲へと急速に塗り替えられていく。
「……何だと? 今、何と言った」
父の低い声が食卓に響く。父はフォークを力任せに皿に叩きつけ、金属音が甲高く空気を切り裂いた。
かつての私なら、その音だけで心臓が縮み上がり、床に額を擦り付けて泣きながら謝罪していたはずだ。けれど、今の私は、自分の姿を天井の隅から冷めた視線で眺めているような、不思議なほど透徹した静けさの中にいた。
目の前で顔を真っ赤にして怒る二人を見ても、恐怖よりも「ああ、この人たちは最後まで、私の言葉を理解しようとすらしないんだな」という、静かな諦念しかなかった。
「家を出るの。もう決めたことだから」
私の声は、驚くほど平坦で、揺らぎがなかった。それが父の神経を逆撫でしたらしい。父は立ち上がり、私の視界を塞ぐようにして一歩踏み込んできた。
「咲希、お前はどうかしているぞ! 母さんが、お前をどれだけ大事に、どれだけ苦労して育ててきたか分かっているのか! お前のために、どれだけ尽くしてきたか!」
父は、まるで台本通りの台詞を吐き出した。自分で考えることを放棄し、母の意見をそのまま自分の言葉として反芻する。その姿が、今はひどく滑稽に見えた。
横を見ると、母はすでにハンカチを目元に当て、背中を大きく揺らして泣き崩れていた。
「咲希……どうしてそんなこと言うの……。お母さん、あなたのために、今日だってこんなに料理を作って待っていたのに……。私を困らせて、あなたは一体どうするつもりなの!」
母の悲痛な叫び。それは彼女にとっての「真実」なのだろう。彼女は自分の支配を「絶対的な愛」だと信じて疑わない。だからこそ、その支配に逆らう私は、恩知らずで、残酷なモンスターに見えているに違いない。
私はゆっくりと水グラスを持ち上げ、冷たい水を一口飲んだ。食道の奥まで冷えていく感覚が、私を現実という名の自由へ繋ぎ止める。
父が、私の落ち着き払った態度に耐えかねたように、さらに声を荒らげた。
「おい、聞いているのか! 母さんに謝れ! 今の言葉を取り消せと言っているんだ!」
「謝ることは何もないわ。だって、私はやっと自分の人生を歩むことにしただけだもの」
私の言葉は、母のパニックを加速させる油を注いだようだった。母は椅子から崩れ落ち、まるで舞台のクライマックスを演じる女優のように、父の足元にすがりついた。
「お父さん……咲希が、咲希がこんな風になっちゃったの……。誰かがあの子を狂わせたのよ! どうしましょう……!」
その光景を、私は他人事のように見ていた。
二人は私を傷つけ、精神的に追い詰め、恐怖で縛りつけようと必死だ。けれど、その刃はもはや私の心には届かない。私はこの食卓という「支配の舞台」から、心の中で完全に離陸し、遠い場所へと飛び立っていた。
「あなたたちの言いたいことは分かったわ。でも、これ以上言葉を尽くしても無駄だと思う。私が求めているのは、あなたたちの許可じゃないから」
私はゆっくりと立ち上がり、椅子の背を離した。
私の人生は、もう誰かによって支配される台本の上にはない。私はバッグを手に取り、出口へと向かって一歩、また一歩と歩みを進める。母の泣き声が背後で鳴り響いていたけれど、それはもう、私を呼び止める声には聞こえなかった。




