第29話 閉ざされた食卓
職場から戻る足取りは、不思議なほど軽かった。
バッグには、新しい街の地図と、私の未来を記した桜色のノートが入っている。この重みが、私を「私」のままでいさせてくれる。私は玄関の前で一度深く深呼吸し、心を整えた。「良い娘」という仮面を、今日こそは二度と被らなくて済むように、脱ぎ捨てる準備をする。
――大丈夫。私はもう、あの南向きの部屋でコーヒーを淹れる姿を想像できている。
ドアを開けた瞬間、漂ってきたのは懐かしい、けれど今の私にはあまりにも息苦しい、煮込み料理の匂いだった。
リビングの扉を開けると、そこには見たこともないほど豪華な料理が並んでいた。私の誕生日を祝うという名目だが、その食卓の並び方はどこか祭壇のように厳かで、異様だった。
そして、本来いるはずのない人物が、食卓の主の席に座っている。
「おかえり、咲希。久しぶりだな」
父だ。単身赴任先から、なぜか今日に限って戻っている。
父は、母の言葉を盲目的に信じる人だ。「家庭のことは母さんに任せている」を盾に、母が私をどう支配し、いかに私から自由を奪い取ろうと、見て見ぬふりを決め込んできた。彼がそこにいるだけで、私の心臓が凍りついていく。
母は満足げに、父の隣で微笑んでいた。
二人揃ってのこの演出。父を呼んだのは間違いなく母だ。私が最近「様子がおかしい」ことへの、母なりの先制攻撃。夫婦という強固な結託で私を囲い込み、完璧に「矯正」しようという魂胆だ。
「今日は特別だぞ、咲希。母さんが腕によりをかけて作ったんだ。さあ、座れ」
父の無神経な言葉に、母が嬉しそうに寄り添う。
二人の空気は完璧な「夫婦」の体裁を保ちながら、同時に私を排除する巨大な「壁」となってそびえ立っていた。食卓の空気が、まるで真空のように私から息を奪う。
口から心臓が飛び出しそうだった。逃げたい。今すぐにでも、ここから駆け出して、あの新しい街へ向かいたい。でも、ここを逃げたら、私は一生このまま、彼らの付属品として生きることになる。
私は震える指で、グラスの水を飲み干した。喉が張り付いている。
父と母の会話が、遠くで鳴り響く警告音のように頭蓋骨に響く。
「……あの」
声は、自分でも驚くほど細く震えていた。
二人の視線が、同時に私に突き刺さる。
母の瞳には「余計なことを言うな、恥をかかせるな」という鋭い毒の警告が。父の瞳には「何をそんなに怯えているんだ、甘えるな」という、無関心ゆえの威圧が宿っていた。
私は、テーブルの下で太ももを爪が食い込むほど強くつねった。
痛みが、私を現実のこの場所に繋ぎ止める。私は自分の人生を、自分の足で歩くために、ここに立っている。
「……今日、伝えておきたいことがあるの」
父がフォークを置いた。カチン、と陶器に金属が当たる冷たい音が、食卓の沈黙を切り裂く。
「なんだ、咲希。改まって。……誕生日だからって、羽目を外すようなことは言うなよ」
先制パンチだった。父の言葉が、私の喉を塞ぐ。母がふふっと優雅に笑う。その笑顔は、かつて私を愛していたはずの母のものではなく、私を所有し続けるための捕食者の笑みだった。
「いいのよ、お父さん。咲希も、自分の立場をちゃんと理解しているはずだから」
母の言葉が、私を「娘」という名の檻の中に強引に閉じ込める。
私は立ち上がった。椅子が床を擦り、ガタリと激しい音を立てた。
逃げたい。消えたい。でも、ここで私が沈黙に飲み込まれたら、あの南向きの部屋の光も、喫茶店の香りも、すべて永遠に幻になってしまう。
「……違う」
私は、自分の内側の底から絞り出すように言った。
「私は、もうお母さんの娘として生きることはできない。……私、家を出るから」
言った。
食卓が、音もなく凍りついた。父の唖然とした顔と、母の笑顔が凍りつき、崩れ去るのが見えた。私の物語が、本当に動き出した。




