第27話 仮面の裏側
無事に物件の仮押さえを終えたあの日から、私の世界は明確な二層構造になった。
表層は、これまで通り母の求める「従順で無力な娘」。そして深層は、自分の城への帰還を夢見る「静かな革命家」。私はこの二つの顔を、まるで完璧な舞台女優のように演じ分けていた。
その夜、帰宅するとリビングは異様なほど静かだった。テーブルには、私が子供の頃に喜んだ、母特製の煮込み料理が並んでいる。母はキッチンから私を見つめ、少しだけ目を細めた。
「おかえり。今日は一段と疲れている顔ね」
その声はどこまでも甘く、それゆえに蜜に混じった毒のように私の肌を刺す。私は無意識にカバンを抱きしめた。中には、私の未来そのものである重要書類の控えが入っている。もしこれが見つかれば、母の「優しさ」は瞬時に爆発し、嵐のような糾弾が始まるだろう。
「……うん、仕事が少し忙しくて。早く寝るわ」
私は努めて自然に、靴を脱ぎ、いつもの「良い娘」の仮面を被る。母は私の皿に料理を取り分けながら、鋭い視線を私の顔に突き刺したまま離さない。
「最近、水瀬さんという方とよく出かけているんですって? あなた、職場の人にあまり深入りしないほうがいいわよ。あの子たちだって、あなたのことなんて本気で心配していないんだから。……あなたを一番愛しているのは、お母さんだけよ」
心臓が冷たい氷の棘で貫かれたようだった。私の行動が、どこまで監視されているのか。職場にまで母の触手が伸びているのかという恐怖が、胃の奥からこみ上げる。母は、私の様子が変わったことを本能的に嗅ぎつけている。獲物が檻から逃げ出そうとしていることに、野獣のような鋭さで気づいているのだ。
私は、テーブルの下で震える手を強く握りしめ、爪を食い込ませた。痛みが、私を「今」に繋ぎ止める。
「……ただの同僚だよ。そんなに心配しなくていいのに。過保護だなあ」
私は淡々と答え、料理を口に運ぶ。
母の作った料理は、今や私にとっては「愛の象徴」ではなく、胃に重くのしかかる「支配の味」でしかない。美味しいと感じる余裕さえ、母の視線が奪っていく。
食後、早々に部屋へ引き上げると、私はすぐにスマホの「隠しフォルダ」を開いた。そこには、私の唯一の救いである、南向きの部屋の写真がある。木漏れ日が差すベランダ、私だけの静寂。この画像を見るだけで、荒れ狂う心の波が少しずつ凪いでいく。
その夜から、私の「断捨離作戦」が始まった。
一度に荷物を出すのは不可能だ。母はクローゼットの整理一つにも「どうしてそんなことするの?」「まだ使えるでしょう」と首を突っ込んでくる。だから、数日かけて、本当に少しずつ、不要なものをゴミ袋に詰め、母のいない隙に外へ運び出す。それは、自分自身を構成していた「母の呪縛」を物理的に捨て去る儀式だった。
桜色のノートに、私は脱出へのカウントダウンを記す。
『母の「寂しさ」を埋めるための演技。今の私は、まるでプロの役者だ。
母が私を疑い、監視を強めるたびに、私はもっと冷静になれる。この冷徹なまでの冷静さは、母が私に教え込んだ「顔色を窺う力」の成れの果てだ。
お母さん、あなたは私を縛り付け、自分の思い通りの人形にするために、徹底的に私を監視し、コントロールしてきたわね。でも、皮肉ね。そのおかげで私は、誰よりも相手の動向を読み、誰よりも巧妙に隠れる技術を身につけてしまった。
あなたは、自分の脱出のための鍵を、私に渡し続けていたのよ』
日記を閉じ、鍵をかける。
その瞬間、背後のドアがカチャリと音を立てて開く幻聴が聞こえた気がして、私は激しく肩を震わせた。
母との心理戦は、これからが本番だ。
私は心の中で、自分の城に灯る明かりを想像する。誰にも邪魔されない、私だけの静かな夜のために。私は檻の鍵を内側から少しずつ削り取り、静かに、誰にも気づかれないように解体していく。




