第26話 インクが定着する未来
数日後、帰宅した私は、誰にも見られないように鍵をかけ、静かにノートを開いた。
「ついに決めてしまった」
先ほど不動産屋でもらってきた物件のチラシを、桜色のノートの新しいページに丁寧に貼る。そこには、私が選んだ南向きの部屋と、近くの喫茶店の場所が誇らしげに記されていた。
ペンを握る手が、先ほどまでとは少し違った重みを感じている。
今までは「こうなればいいな」という祈りに近い願いだった。けれど今は違う。これは「近いうちに必ず訪れる日常」の記録だ。紙の上の数字や間取りは、もはや単なる情報ではなく、私の血肉となる未来の断片だった。
【その日のノートの記録】
『ついに、決めてしまった。
私の新しい部屋。南向きの窓から光が溢れる、あの場所。
帰りに見つけた、あの小さな喫茶店。
ノートに書き続けていたことが、現実の形を持って私を追いかけてきている。
今まで、このノートは私の逃げ場だった。絶望を飲み込み、痛みを殺すための、沈黙の友達。
でも、これからのページは違う。これから書くことは、もう空想じゃない。
カーテンは何色にしよう?
朝、目覚めたときに一番気持ちがいいのは、やっぱり淡いベージュかな。
あの喫茶店では、どの席に座って、どんな本を読もう?
そんな「当たり前の悩み」を、今の私は心から愛おしいと思う。母に支配されない朝、誰の許可もいらない週末。そんな未来が、すぐそこまで来ている。
このノートにインクで記された未来は、もう誰にも消せない。
私は、私という物語を、自分の手で書き進めていく。
十六歳の私、待っていて。
ようやく、あの時に夢見た場所へ、私はたどり着くよ』
ペンを置くと、インクが染み込んだ紙面が、部屋の薄明かりの中で少しだけ光を吸い込んだように見えた。
私はゆっくりと深呼吸をする。
リビングからは、母がテレビのボリュームを上げる音が聞こえる。いつもなら、その音の大きさに萎縮し、自分の存在を小さくしていたはずだ。けれど、今の私には、その音が「遠い異国の、別の世界の騒音」のようにしか聞こえない。
私の心は、もうこの家を出て、あの新しい部屋のベランダで、柔らかな風に吹かれている。
カーテンの柄を選び、冷蔵庫に何を入れようかと考え、週末の予定を誰にも相談せずに決める。そんな当たり前の幸福が、現実として押し寄せようとしている。
現実が、私の想像を追い越し始めた。
私は自分の中で、密やかに笑った。
母の管理下に置かれた「いい子」としての私は、もうすぐ消滅する。
準備は、すべて整いつつある。あとは、ただその時を待つだけだ。




