第22話 小さな連帯
佐藤さんの嫌がらせは、私が「業務の優先順位」を主張して以来、さらに執拗で陰湿なものへと変わっていた。周囲も明らかに彼女の振る舞いを「度が過ぎている」と感じているはずなのに、誰もその火の粉を浴びることを恐れて口を閉ざしている。私は、広大な荒野にたった一人で立っているような孤独の中にいた。
そんなある日の午後、ランチタイムの給湯室で、入社二年目の真鍋さんが声をかけてきた。
「瀬戸さん……さっきの、すごかったね」
真鍋さんは、私のデスクのすぐ隣に座っている、大人しい性格の同僚だ。これまで佐藤さんに怒鳴られている私を、いつもどうすることもできずに、ただ困ったような悲しい顔で見つめることしかできなかった人だ。
「えっ……」
私が驚いて顔を上げると、真鍋さんは周りを気にするように一歩近づき、小さな声で続けた。
「佐藤さん、ちょっと言いすぎだと思う。……瀬戸さんが、いつも誰よりも丁寧に仕事してるの、私、ずっと見てたから。いつも、本当にかっこいいなって思ってたんだ。……一人で全部抱え込まないで。私でよければ、何か手伝えることがあったら言ってね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱く、そして激しく震えた。
佐藤さんという圧倒的な敵の存在に対し、真鍋さんという「理解者」が私の側に立ってくれた。それは、物理的な力では戦況を覆すほどのものではないかもしれない。けれど、私にとっては、世界が少しだけ明るく色づくような、魔法のような言葉だった。
私は、誰からも必要とされていないわけじゃない。私の「戦い」を、密かに見守ってくれていた人がいたのだ。
その夜、実家の部屋に戻り、私は鍵をかけてノートを開いた。
母の監視に怯え、息を殺して過ごした一日の張り詰めた疲れが、真鍋さんの言葉を書き記すことで、静かに、そして確実に溶けていくのを感じた。
【その日のノートの記録】
『今日、真鍋さんが声をかけてくれた。
私が佐藤さんに言い返したことを、「すごかった」と言ってくれた。
いつもなら、誰からも関わられないように必死だったのに。私が立ち止まって境界線を引いたことで、誰かがそこに気づいてくれた。
職場は、怖い場所ばかりじゃないのかもしれない。
母のルールに縛られず、自分の意志で正しくあろうとすれば、それを見ていてくれる人がいる。
真鍋さんの言葉は、今の私にとって、どんな高いブランドの薬よりも効くお守りだ。
私は、もう「見えない存在」じゃない。佐藤さんや母が私をどれだけ否定しても、私を認めてくれる人が、外の世界にはちゃんといる。
明日も、毅然と働こう。
孤独だった私のノートが、誰かの温かい言葉で少しずつ満たされていくのが嬉しい。
次は、私も誰かの盾になれるような、そんな自分になりたい。一人じゃないと思えるだけで、こんなにも強くなれるなんて』
ノートを書き終えると、ページを閉じて引き出しの奥深くへ隠した。
今日記したその文字たちは、私の「硝子の盾」を、ただの脆いガラスから、より硬く、よりしなやかな強固なものへと変えてくれた気がする。
リビングへ戻ると、母が夕食の準備をして待っていた。
「咲希、今日は随分と遅かったわね。職場で何かあったの?」
母の問いかけに、私は以前のように怯えることはなかった。
私の心の中には、給湯室での真鍋さんの優しい眼差しがある。それは母の入り込めない、私だけの秘密の領土であり、決して奪われることのない確かな絆だ。
「……別に。ただ仕事が立て込んでいただけだよ」
私は淡々と答え、母の作った料理に箸をつけた。
母が私を支配しようと、どんなに甘い言葉をかけても、もう私の心はそこにはない。私を支えてくれる小さな連帯を胸に、私は着実に、この家を出るための準備を進めている。
私の世界は、もう母一人のものじゃない。




