第21話 硝子の盾
佐藤さんの嫌がらせは、想像以上に執拗で陰湿だった。
私が「業務の優先順位」を主張してからというもの、彼女は私の手元にわざと不備のある資料を渡しては、「入力ミスが多いわね」と周囲に聞こえる声で吐き捨てるようになった。職場の空気が、私に向けられた冷たい視線で澱んでいく。
ある日、あからさまに数値を間違えた資料を渡されたときは、さすがに足が震えた。
「……これは、佐藤さんから受け取った原稿の通りに入力しましたが」
私が冷静に指摘すると、佐藤さんは「そんなはずないでしょう、確認不足よ! あなた、最近仕事が雑ね」と声を荒らげた。周囲の同僚たちが一斉にこちらを見る。
けれど、今の私は以前の私ではない。
「確認のため、受け取り時に私が書き写したメモと照合します」
私は淡々と、手帳を開いた。そこには、受け取った日時と、佐藤さんが手渡しした際の指示が細かく記録されている。証拠を突きつけられた佐藤さんは顔色を変え、捨て台詞を吐いて去っていった。
オフィスは静まり返っていたが、私の胸の中には、燃えるような勝利感と、次への警戒心が渦巻いていた。戦うためには、感情を捨て、冷徹なまでの「事務」に徹すること。それが今の私の武装だ。
……けれど、真の戦場は職場から実家へと移る。
帰宅した私は、鍵を閉めた部屋で、まるで戦場から帰還した兵士のような疲労感に包まれていた。カバンからスマホを取り出す。今の私にとって、これは単なる通信機器ではなく、未来への希望を紡ぐための「地図」だ。
習慣のように、ブラウザの履歴を一つ残らず削除する。「一人暮らし」「賃貸」「家賃相場」。そんな言葉の残骸は、母に見つかれば「裏切り」の証拠として即座に突きつけられる。私は呼吸を整え、検索履歴を消去するたびに、自分の心に鍵をかけていく。
その時だった。コン、という音もなく、ドアがゆっくりと開いた。
「咲希、何してるの?」
背筋が凍りついた。母が、いつの間にか背後に立っていたのだ。
反射的にスマホを裏返したが、母の鋭い視線が私の手元を射抜く。心臓が早鐘を打ち、喉元まで呼吸がせり上がる。
「……別に、仕事のメールをチェックしてただけ」
「あらそう? 最近、スマホばかり見てるわね。何を見てるの? お母さん、少し寂しいわ」
母は私の背後に回り、肩に手を置く。その爪が食い込むような感覚が、私の神経を逆なでする。母は、私が自分自身の「境界線」を引こうとしていることに、獲物を狙う獣のような本能で気づいているのだ。
母はスマホを奪ったりはしない。それは私の反抗を公にする行為だからだ。その代わり、母はもっと巧妙に、私の心という聖域に土足で踏み込んでくる。
「ねえ、咲希。最近、職場の誰かに変な吹き込みでもされたのかしら? あなた、最近すごく冷たいわよ」
母の優しい微笑みは、喉元に刃を突きつけられているような毒を孕んでいる。
私は息を殺し、必死で「いい子」の仮面を被った。
「……そんなことないよ。ただ、仕事で疲れているだけ」
母は満足したのか、ふうとため息をついて部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、私はへたり込んだ。スマホを握りしめる掌には、冷や汗がべっとりと張り付いている。
今の私は、誰にも見えない「硝子の盾」の中にいる。
この盾は透明で、脆く、私自身の不安や恐怖でできている。もし割れてしまったら、私はまた、あの暗い支配の海に引きずり込まれ、一生這い上がれなくなるだろう。
私は震える指で再びスマホを開き、今度はプライベートブラウズモードに切り替えた。
検索履歴が一切残らない、真っ暗な空間。そこだけが、今の私にとって唯一の安全地帯だった。
私は、その暗闇の中で、夢のような物件情報を探す。
いつかこの硝子の盾を突き破り、本当の自由を手に入れる日まで。私は息を殺し、孤独な潜伏を続けるしかないのだ。




