第20話 見えない領土(テリトリー)
水瀬先輩と食事をした日以来、私の中で何かが決定的に変わった。
私はもう、ただの「便利な犠牲者」ではない。自分の人生を奪還するために戦う、一人の戦士なのだ。その自覚が、私の背筋を内側から強く支えている。
その日の午後、私は仕事の合間を縫って、駅前の銀行の窓口へ向かった。
母には内緒の、私だけの預金口座を作るためだ。これまで給与はすべて母が管理する口座に振り込まれ、私はそこから「お小遣い」という名の配給を受けていた。それを切り離す。それは、親からの精神的な断絶だけでなく、経済的な切断を意味する、私の人生における最大の「宣戦布告」だ。
窓口で、新しい通帳を受け取ったとき、手が震えた。
この一冊の紙の束は、単なる預金通帳ではない。私にとっての、自由へのパスポートだ。たとえ最初はわずかな貯金からでも、この数字は、誰にも支配されない「私の人生」の記録になっていく。
帰社すると、私のデスクには山のような書類が積み上げられていた。佐藤さんの筆跡で書かれたメモが添えてある。
「瀬戸さん、これ全部今日中に入力しておいて。あと、午後の会議の資料、人数分コピーしておいてね。あ、お茶も忘れずに」
佐藤さんの声には、昨日の私の「反撃」に対する、あからさまな当て付けが混じっていた。彼女は、私がまた以前のように「はい」と屈服し、自分のランチタイムを削ってでも彼女の指示に従うのを待っている。
私は山積みの書類を眺めた。かつての私なら、ここで胃を締め付けられるような恐怖を感じたはずだ。けれど、今は違う。バッグの中には、私だけの自由を証明する通帳が入っている。私の守るべき「領土」は、もう母や佐藤さんの支配下にはない。
「佐藤さん」
私はあえて穏やかに、けれど毅然とした声で名前を呼んだ。
「その書類は引き受けます。ただ、会議資料のコピーとお茶の準備を並行すると、入力作業が終了するのは明日午前の提出になります。どちらを優先すべきか、佐藤さんのご判断を仰ぎます」
オフィスが一瞬、静まり返る。佐藤さんの顔が屈辱で歪むのが見えた。「生意気だ」という怒声が飛んでくるのを覚悟した。けれど、私は怯まない。ここで引けば、私はまた「管理される道具」に戻ってしまう。私は私を守らなければならないのだ。この新しい通帳と、あのノートに記した未来のために。
「生意気ではなく、業務の可視化をしているだけです。期限を守るための、現実的な判断としてお伝えしました」
私の言葉に、佐藤さんは毒を吐くように「勝手にしなさいよ!」と吐き捨てて、背を向けて奥へ引っ込んだ。その姿は、かつて私を支配していた母の横顔と重なって見えた。彼女たちにとって、自分の思い通りにならない私は、ただの異物なのだ。
私は深呼吸をし、パソコンに向かう。
心の中では、母と佐藤さんという二つの大きな壁が、私を囲んでいる。けれど、その壁の隙間に、私は自分だけの場所を見つけた。
退社後、私は駅のベンチに座り、スマホで「一人暮らし 物件」という検索窓を開いた。
最初は、見慣れない不動産サイトの画面に、指先が少し迷った。画面の中には、私の知らない場所で、誰かが新しい人生を始めようとしている広大な世界が広がっている。
私はバッグの中で、銀行で作ったばかりの通帳を強く握りしめた。その感触が、私を現実へと繋ぎ止めてくれる。
検索結果に並ぶ、光に溢れた部屋の写真たち。
いつか、この検索結果の一つが「私の家」になる。
そう確信したとき、私の心は初めて、重力から解き放たれたように軽くなった。
私の本当の物語は、ここから始まる。
母の支配も、佐藤さんの執着も、すべては遠い過去のノイズになるはずだ。私は顔を上げ、夜の街を見渡した。この街のどこかに、私のための場所が待っている。そう思うと、明日の朝が来るのが、少しだけ楽しみになった。




