第15話 二つの差し出された手
朝のキッチンは、今日も母の「慈愛」という名の支配で満たされていた。テーブルの上には、丁寧に詰められた色鮮やかなお弁当箱。
「ほら、最近お昼は外食ばかりだったでしょう? お弁当を作ったから。あなたの健康が一番だからね。……お母さんの手料理、また食べたくなったでしょう?」
母は微笑んでいた。その笑顔の裏には、「私の作ったものを食べていれば、あなたは私の管理下にいる」という、無言の圧が隠されている。昨日、私が佐藤さんに反論したことなど、まるでなかったかのように。母の優しさは、いつもこうやって日常を塗りつぶし、私の自立の芽を摘み取っていく。
私は「ありがとう」という言葉を喉の奥に詰め込み、お弁当をカバンに仕舞い込んだ。断ればまた「冷たい子」だと責められるのが分かっていたからだ。
職場に着くと、カバンの中のお弁当が、まるで鉛のように重く感じられた。母の期待という重力。それを抱えたまま、私は佐藤さんの顔色を窺いながらデスクに向かう。
正午過ぎ、不意に声がかかった。佐藤さんの派閥には属さず、自分の業務を静かにこなす同僚、高橋さんだ。
「瀬戸さん、今日ランチ行かない? この近くのイタリアン、前に行きたいって言ってたよね」
心臓が跳ねる。佐藤さんの派閥に属さない人間と親しくすることは、この部署ではタブーに近い。佐藤さんの視線が、私の背中に突き刺さるような気がした。
母の弁当を食べるか、それとも外へ出るか。
母の「いい子」としての安寧か、それとも「私」としての冒険か。
私は意を決して、お弁当箱の入ったカバンをデスクに置いたまま立ち上がった。
イタリアンレストランのテラス席は、窓から差し込む陽光に包まれていた。
「……ありがとう、誘ってくれて」
私がそう呟くと、高橋さんは少し照れたように笑った。
「ううん、ずっと誘いたいなって思ってたよ。最近、瀬戸さんすごく変わったよね。なんていうか……自分の意見をちゃんと持つようになったっていうか。見てて、かっこいいなって思ってたんだ」
私は驚いて顔を上げた。
「私……かっこいい? 佐藤さんに生意気だって言われるようなことしかしてないのに」
「それは佐藤さんが自分の価値観を押し付けてるだけだよ。瀬戸さんはさ、いつも一生懸命だし、何より、誰かに忖度するのやめてから、すごく表情が柔らかくなった。私は、今の瀬戸さんの方がずっと好きだよ」
その言葉は、まるで春の光のように私の心の凍った場所を溶かしていった。
これまで「いい子」でいるために、自分を殺し、誰かの顔色を窺い、空っぽの器になり果てていた私。でも、誰かがそれを見ていてくれた。そして、今の私を「好き」だと言ってくれた。それは、母の条件付きの愛とは違う、無条件の肯定だった。
帰り際、高橋さんが私に言った。
「また行こうね。今度は瀬戸さんの好きなカフェの話も聞かせて」
オフィスに戻ると、デスクには母が作ったお弁当がポツンと置かれていた。
私はそれを手に取る。開けずとも、母の味付けの記憶が蘇る。それは私を「あの頃の何もできない幼い私」へと引き戻そうとする、重い呪文の味がした。
これは「愛」ではない。私をいつまでも支配下に置き、自分の望む人形として生かしておきたいという、母の冷たい「執着」だ。
私はお弁当箱を手に、足早に給湯室へ向かった。
給湯室のゴミ箱に、それをそっと捨てる。罪悪感は、以前ほど大きくなかった。むしろ、肩から目に見えない鎖が一つ外れたような、不思議な爽快感があった。
私は、自分自身で選んだ。
たとえ母が怒ろうとも、私はもう、母の作った「執着」は食べない。
窓から見える空は、昨日よりも高く、青く澄んでいた。




