第16話 毒の包容
帰りの電車の中、私は高橋さんと交わした会話を反芻していた。
車窓に映る自分の顔が、以前よりも少しだけ柔らかい色をしていることに気づく。お弁当を捨てたことへの罪悪感は、皆無ではなかった。給湯室のゴミ箱の中に、母の慈愛の象徴を置いてきたという事実は、やはり私の心のどこかをチクリと刺す。
けれど、最寄り駅の改札を抜けるその瞬間、ふっとその不安が頭をよぎっただけで、すぐにカフェで飲んだコーヒーの温もりがそれをかき消した。
私は、私を守ったのだ。そう自分に言い聞かせるたびに、足取りは軽く弾む。
しかし、玄関のドアを開けた瞬間、その幸福感は氷漬けにされた。
リビングから漂う夕食の匂い。私を待ちわびていた母が、ソファから立ち上がり、慈しむような笑みを浮かべてこちらを見ている。
「咲希、おかえりなさい」
ダイニングテーブルに座るなり、母は私の顔を覗き込み、わざとらしく眉を下げた。
「咲希、今日のお弁当はどうだった? 久しぶりにだし巻き卵を頑張って焼いたのよ。美味しかった?」
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。母の瞳が、私のカバンを、そして私の心の中を透かして見ているかのように思えた。捨てたことがバレている。
隠そうとしていた自分の「反逆」を正面から問われ、逃げ場を失ったように感じる。喉が張り付いて声が出ない。私は俯いて、空っぽのお弁当箱が入ったバッグを強く握りしめた。
「……ごめん。今日、お昼、仕事が立て込んでて、あまりお腹が空いてなくて。半分くらいしか食べられなかったの」
精一杯の嘘だった。けれど、母はそれ以上の追及をしない。
次の瞬間、母は私の額に手を当てようとして、慌てたように私を抱きしめた。
「まあ、そうだったのね!……ごめんなさい、気づかなくて。仕事が忙しすぎて疲れが溜まっているのよ。あなたの顔色が悪いもの。私、あなたのことばかり考えているのに、あなたの体調の変化すらわかってあげられなくて……」
母の腕の中は、驚くほど温かかった。けれど、それが心底怖かった。
怒鳴られる方が、どれだけ楽だったろう。なぜ怒らないの? なぜ、すべてを私の体調不良のせいにできるの?
母のその「優しさ」は、まるで私の逃げ道をすべて塞ぐ高い壁のようだった。私がどんなに反抗しても、母はそれを「あなたの不調」や「あなたの苦悩」として全て吸収してしまう。私を被害者という名の保護下に固定し、私の自立の意思を、優しさという名の粘着剤で塗り潰していく。
私は逃げるようにして自室へ駆け込んだ。
扉に鍵をかけ、震える手でノートを開く。
【その日のノートの記録】
『母が、すべてを知っている気がした。
お弁当の話をされた瞬間、世界が真っ白になった。
怒鳴られた方がずっとよかった。あんなふうに、私が食べたか食べていないかを確認する母の目、そしてそれを「体調のせい」にして私の過失を消し去る母の声。
あの優しさは、私を支配するためのものだ。
私が「私は自分の意思で捨てたんだ」と証明しようとしても、母のあの微笑みの前では、私はただの「弱ってしまった可哀想な子供」になってしまう。
母の優しさは、毒だ。
私の内側に深く入り込んで、私の罪悪感を養分にする。
今日、高橋さんと食べたランチは、あんなにも明るくて、自由で、私の心を軽くしてくれたのに。家に帰っただけで、その記憶さえも汚されていくような気がする。
逃げなければ。
もっと深く、もっと遠くへ。
この優しい「毒の檻」から出るための計画を、今すぐ立てないと。私は、母の愛情という重圧に押し潰されて、本当の私を忘れてしまう』
ノートを書き終えると、涙が滲んで紙が波打った。
私は机に突っ伏した。廊下の向こうから、「明日も、美味しいお弁当を作ってあげるからね」という母の甘い囁きが聞こえてくるような気がする。
私はカバンの中の『カフェガイド』を、爪が食い込むほど強く握りしめた。これだけが、今の私を繋ぎ止める、唯一の現実だった。




