第14話 静かなる反撃
これまでの私は、佐藤さんから押し付けられる「誰の役にも立たない雑用」を、母の教え通りに「自分を犠牲にして」引き受けていた。けれど、水瀬先輩の助力と、自分を取り戻すためのノートのおかげで、私の目には別の景色が見え始めていた。
ある日の午後。佐藤さんが、またしても面倒な仕事を私のデスクに投げ出した。
「瀬戸さん、これ今日中に全部ファイリングしておいて。ついでに私の分のお茶も淹れてきてくれる?」
無造作に放り出された資料の束。私のデスクの上の予定表は、既にタスクで埋め尽くされている。以前なら「はい」と反射的に笑みを浮かべ、自分のランチを削ってでも作業に没頭していただろう。だが、今日は違う。
「佐藤さん、承知しました」
私はゆっくりと顔を上げ、穏やかだけれど、決して揺らぐことのない声で切り出した。
「ただ、現在私はプロジェクトチームの資料作成を最優先するよう課長から指示を受けています。お茶の準備と合わせると、定時内にすべてを終わらせることは物理的に不可能です。どちらを優先すべきか、佐藤さんのご判断を仰いでもよろしいでしょうか?」
オフィスが一瞬、真空状態になったように静まり返った。
キーボードを叩く音すら止まる。佐藤さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、私と資料の束を交互に見比べた。私が「反論」したことなど、入社以来ただの一度もなかったからだ。彼女の目が、驚きから困惑へ、そして次第に剥き出しの不快感へと変わっていく。
「……何よ、できないなら残業すればいいじゃない。仕事ってそういうものでしょ?」
佐藤さんは苛立ちを隠そうともせず、鼻を鳴らす。かつての私なら、ここで顔を真っ赤にして謝り、深夜までの残業を即決していた。けれど、今の私は母の呪文を書き換えた後の自分だ。
「承知しました。では、チームの資料を優先し、ファイリングは明日回しにします。お茶については、佐藤さんご自身でお願いできますか? 手が離せないので」
心臓が破裂しそうなくらい高鳴っている。指先は氷のように冷たいのに、思考は驚くほどクリアだった。
佐藤さんは顔を真っ赤にして憤慨し、何かを言いかけようと立ち上がった。けれど、私の言葉が理路整然とした「業務上の判断」である以上、彼女が無理強いをすれば、それは「公私混同」という悪評を自ら招くことになる。
周囲の同僚たちが、驚いたような、そして少しだけ感心したような視線をこちらに向けているのを感じた。佐藤さんはバツが悪そうに舌打ちをすると、何も言わずに自分のデスクへと引き下がった。
私はそのまま、何事もなかったかのように画面に向かった。
胸は激しく打っている。けれど、震えはしなかった。自分を犠牲にしないことが、結果として「自分を守る武器」になるのだと、身をもって理解した瞬間だった。
その日の帰り際、給湯室でたまたま顔を合わせた同期が、私の横を通り過ぎる時に小さな声で言った。
「……今日、かっこよかったよ。瀬戸さんがいつも大変そうなの、みんな見てたからさ」
驚いて顔を上げた時には、相手はもう背中を向けていた。誰かが見ていてくれた。私が必死に引いた「境界線」を、誰かが認めてくれた。その事実が、凍りついていた私の心に小さな火を灯す。
帰宅し、鍵を閉めた自室。私はすぐさまノートを開いた。
震える手で、私は今の率直な感情を綴る。
『今日、初めて佐藤さんにNOと言えた』
『すごく怖かったけれど、自分で自分を守れたことが、今の私には誇らしい』
『よく頑張ったね。あなたはもう、誰かのための便利な道具じゃない』
ノートの文字に、自分の名前を書き添える。それは私にとって、自分の人生を所有するための署名だった。
母の呪いという鎖は、まだ身体に巻き付いているかもしれない。けれど、その鎖を一つずつ解く術を、私は確実に手に入れつつあった。鏡の中の私は、どこか誇らしげな顔をしていた。




