第13話 甘い罠と、冷めた心
知らない街で手に入れた時間は、あまりにも濃密だった。
路地裏のカフェで夢中でノートを書き、これからの未来を思い描き、静かな読書に没頭していたら、駅の時計はもう夜の九時を回っていた。
会社と家の往復しか知らなかった私にとって、この時間は初めての「反抗」だった。
急いで電車に飛び乗ったけれど、心臓は早鐘のように鳴り響く。
門限という、この家にはないはずの、けれど絶対的なルール。これまで一度も破ったことのなかった境界線を、私は自分で踏み越えてしまったのだ。
駅のホームに降り立つと、帰り道がひどく長く感じられた。怒鳴られるかもしれない、冷たく突き放されるかもしれない。帰りの電車の中で、私は何度も心の中で「すみません」と謝罪の言葉を反芻していた。それが、この家に帰るための唯一の通行証だと信じていたから。
玄関で鍵を開け、そっとリビングのドアを押し開ける。
テレビの音だけが、虚しく室内に響いている。母はソファに座り、私の帰りを待ちわびていたはずだ。私は身を硬くして、反射的に頭を下げた。
「ごめんなさい、遅くなって……」
怒声が飛んでくるのを覚悟して、目をつぶる。けれど、その沈黙は驚くほど穏やかだった。
「あら、咲希。おかえりなさい」
振り返った母の顔には、怒りどころか、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。
「お腹すいているでしょう? あなたの好きなシチューを作っておいたのよ。少し冷めちゃったけれど、温め直すから座りなさい」
母は立ち上がり、私のコートを受け取ろうと手を伸ばす。その所作があまりに自然で、逆に背筋が凍りついた。
怒られると思っていたのに、待っていたのは過剰なほどの優しさだった。以前の私なら、この優しさに涙を流し、「ごめんなさい、お母さん」とすがりついていたはずだ。けれど今の私には、その手が、首に巻かれる見えない鎖のように感じられた。
「お母さん……あの、今日、少し遠出をしていて」
「いいのよ、いいの。あなたが楽しそうにしているなら、私はそれだけで十分よ。……寂しかったけれどね」
母はふっと寂しげに目を伏せ、わざとらしくため息をついた。
キッチンから漂う、懐かしくて優しいシチューの匂い。昔はこれが「母の愛情」だと信じて疑わなかった。けれど、今の私にはそれが、私を元の場所へ引き戻そうとする甘い罠のように感じられる。
――優しい。でも、これは私の自由を奪うための優しさだ。
私は食卓に座ることを躊躇った。もしここで素直に受け入れてしまえば、私はまた、あの「母の寂しさを埋めるための道具」として、自分を差し出すことになる。
「……ごめんね、お母さん。今日は、外で食べてきちゃったから」
私の言葉に、母の動きがピタリと止まった。
一瞬、母の瞳から笑みが消え、鋭い光が宿ったのを見た。それは私を監視する、獣のような光だった。けれど、それもすぐに柔らかな母の仮面に覆い隠される。
「そう……残念ね。でも、明日なら一緒に食べられるわよね?」
母の優しい口調は、決して私を逃がさないという確固たる意志を孕んでいる。
私は部屋へ向かう廊下を歩きながら、胸の中で小さく、けれど深く息を吐いた。カフェで感じたあの自由な風は、この家のドアをくぐった瞬間に、まるでお伽話のように消えてしまった。ここは、私の魂をすり減らす場所だ。
自室に入り、カチリと鍵をかける。
カバンの中の『カフェガイド』をぎゅっと抱きしめた。母の優しさに取り込まれてはいけない。この心地よい甘い毒に負けてしまったら、私は二度と自分の人生を選べなくなる。
ノートを開き、私は震える手でこう書き込んだ。
『母は、私が変わったことに気づいている』
『これからは、もっと巧妙な言葉で私を縛ろうとするはずだ』
『でも、私はもう戻らない』
外の夜風は冷たかったけれど、胸の中には消えない灯りがある。私は、私だけの部屋へ行く。その決意は、かつてないほど熱く、私の心の中で燃えていた。




