もんもんぐんぐん
六月が来るたびに、帝国はもんもんする。
これは曲来先生の記す公式記録には載っていない。しかし宮廷の人間なら誰でも知っている事だった。
ムサコジ大臣は六月の予算会議を七月に移し、スゥーエ騎士団長は六月の閲兵式を「天候不純の懸念」を理由に延期。タカヤマ料理長は六月の食器を、壊れにくい素材のもので統一する。
理由はひとつ。
オルガ・イツカ・ヴィクトリア一世は、六月に、ぐんぐん狂乱する。
そして今年の六月某日の早朝、薔薇園から煙が上がった。
最初に気づいたのは、騎士団長のスゥーエ・ナガ。
朝の巡回で南翼の廊下を歩いていた彼は、窓の外に橙色の煙が上がっているのを見た。薔薇園の東側——赤薔薇の区画——が、ぼうぼうと燃えている。
ナガは三秒間、その光景を眺め、それから燃えている区画の真横に、女帝が仁王立ちになっているのに気づいた。
女帝は右手に燭台を持っている。
ナガは六秒間、その光景を眺めると、踵を返し、早足で本館へ向かう。
らぱすてー枢機卿は、執務室で報告書を読んでいる。六月の緊急案件に備え、常に執務室で待機するのが彼の六月の習慣となっている。
スゥーエ・ナガが息せき切って入ってくるのを見て、枢機卿はすぐに立ち上がった。ナガが慌てて近づいてくる理由は、安易に想像できた。
「何事ですかな?」
「薔薇園が燃えています」
「それは——消火を——」
「陛下が燭台を手に、立っておられます」
「六月ですな」
「六月です」
枢機卿はゆっくりと天を仰いだ。それから、手元の報告書を脇に置いた。今日の報告書など、もはや意味をなさないことが分かったからである。
「……庭師たちは」
「全員、水を運んでおります。ただ、陛下の前を横切れないようで」
「陛下はその間、何をされているのです」
「燃えている薔薇を、眺めておられます」
――
女帝は、燃える薔薇園の前でもんもんしていた。
燃える赤薔薇は、朝の光の中で、それはそれは美しかった。炎が花弁の形に揺れ、煙が朝霧と混じり、橙と赤と黒が入り混じって、通常の薔薇園では決して見られない景色を作り出している。
オルガ・イツカ・ヴィクトリア一世は、それを眺めながら、深く静かにもんもんしていた。
人々は女帝の狂乱で、六月の到来を実感する。昨年は執務室の書類を全て窓から投げ捨てた。一昨年は厩舎の馬を全頭、宮廷の廊下に放した。
背後から聞こえてくる複数の足音にも、女帝は振り返らない。
らぱすてー枢機卿の若干上ずった声が聞こえた。
「陛下、朝のご機嫌、いかがでしょうか」
「良い、非常に良いぞ」
「それは——重畳でございます」
「陛下、その燭台は——」
「薔薇に火をつけた」
「……存じております」
「ぐんぐん燃える」
「存じております」
「お前も火をつけてみるか? なかなか良い眺めだ」
枢機卿はナガを見た。ナガは枢機卿を見た。庭師たちは水桶を持ったまま、全員、別の方向を向いていた。
枢機卿が「陛下、燭台を」と手を伸ばした瞬間、女帝は燭台を池に向かって投げつけた。
放物線を描いて池に落ちた燭台は、派手な水しぶきをあげ、沈んでいった。
「惜しい」
「何が惜しいんですか」枢機卿は言った。三十年の経験が一瞬、機能しなかった。
女帝は南館の方角に目をやり、枢機卿に言った。
「曲来を呼べ」
「先生は六月の宮廷には来られません。ご本人がそう仰っています」
「もんもんと書け」
「……と申しますと」
「手紙に、気になることがあり、もんもんする。と書け。それだけでいい」
いつの間にか背後に立っていたムサコジ大臣が、女帝の言葉に追従する。
「三年連続、召喚に成功しおります」
枢機卿が目配せすると、ナガが無言で小さく頷いた。
手紙は直ちにに書かれ、使いの者が南館へと走る。
「すぐ行く」返事は五分で来た。帝国史上、最速の返信だった。
曲来が薔薇園に現れたのは、それから三分後だった。
老人は炭になった区画をゆっくり眺め、池に目をやり、それから女帝を見る。女帝は燃え残った薔薇園の前で優雅に佇んでいる。
曲来は黙って、足元の炭を一本拾い上げた。それから石畳の上に、ゆっくりぐりぐりと何かを書き始めた。
全員が並んで地面を覗き込む。
『もんもんぐんぐん』
「……何ですか、それは」
枢機卿が尋ねる。
「六月の陛下のことだ」
曲来は答えた。
「もんもんが溜まって、ぐんぐん燃やす。単純な話だ」
「単純にまとめないでください」
「単純だろう」
「どうじゃ、オルガよ。もんもんは晴れたか」
女帝はしばらく石畳の文字を見ていたが、やがて声を上げて笑った。
その場に居た全員が固まった。庭師も、枢機卿も、大臣も、ナガでさえも。六月の女帝が笑うのを、誰も見たことがなかったのだ。
ひとしきり笑い終えると、女帝は涙目で言った。
「次は、池を燃やそう」
「池は燃えません」
枢機卿は即座に否定する。
ナガはすでに、池の周囲の可燃物を全て撤去しに走り出していた。
石畳の上の『もんもんぐんぐん』の文字は、夕方の雨が来るまで残り続けた。




