もんもんぐんぐん
隣のデスクで、PCを前に唸っている男。私と同期の田島が、いつの間にか筋トレを始めていたらしい。
理由は知らない。聞いていない。ただ、毎朝出社するたびに、田島の腕がぐんぐん太くなっていくような気がして、私はもんもんとしている。
私の名前は佐久間涼子、二十六歳、中堅広告代理店の営業四年目。田島とは同じ部署で、席が隣で、それ以外は何もない。何もないはずだった。
事の発端は月曜の朝だった。
私が自分のデスクに鞄を置いたとき、田島がいた。田島はいつも先にいる。七時台に来て、私が八時半に来るころにはもう仕事している。それはいつものことだ。問題は、田島が半袖だったことだ。
六月にしては肌寒い日だった。なのに田島は半袖で、腕を机についていた。
その腕が、太かった。
四年間隣にいて気づかなかったのか、という話だが、気づかなかった。四年間、田島の腕をまともに見たことがなかったのだと思う。見る理由がなかった。田島はただの同期で、ときどきランチを一緒に食べて、締め切り前には互いの資料を確認し合うだけの、そういう関係。
なのに、腕が太かった。
「おはよ」
「おはよ」
田島のいつも通りの挨拶に、いつも通りの返事。それだけなのに、私は自分の席に座ってから十五分間、画面を開いたまま何もできなかった。
これが、もんもんの始まり。
火曜日。
田島はまた半袖だった。
私はなるべく見ないようにした。見ないようにしたのに、視界の端に腕がある。田島がキーボードを打つたびに腕の筋肉がわずかに動くのが、見えてしまう。見えてしまうのだからしょうがない。
午前中に部内のミーティングがあって、田島が資料を配って回った。私の分を渡すとき、田島は何も言わなかった。私も何も言わなかった。でも受け取るときに少し指が触れて、思わず「あ」と声が漏れた。
「どうした」
「静電気」
六月に静電気は発生しない。でも田島は「そっか」と言って自分の席に戻った。信じたのか、追及する気がなかったのかはわからない。
もんもんが加速した。
水曜日の昼。
いつものように田島と二人でランチに出た。特に約束したわけじゃない。なんとなく、四年間そうしてきた。行き先は大体いつも同じビルの地下のそば屋で、田島はいつも鴨せいろを頼む。私はオススメランチの親子丼セットにした。
何も変わっていないはずなのに、私はもんもんしていた。
「最近なんか変じゃない?」
田島の言葉に、心臓が跳ねた。
「何が」
なるべく普通の声で言ったつもりだったが、少し上ずった。
「佐久間が。月曜からぼーっとしてる気がする」
ぼーっとしているのは田島の腕のせいだ。そう言えるわけがない。
「寝不足」
「何時に寝てんの」
「二時とか」
「それは自業自得」
田島はそう言って鴨せいろをすする。会話が終わった。
私は親子丼を食べながら、なんでこの人はこんなに普通なんだろうと思った。腕が太いのに、なんでこんなに普通にそばをすすっているんだろうと思った。腕と鴨せいろに何の関係もないことはわかっている。わかっているが、もんもんする。
食べ終わって店を出たとき、田島が言った。
「あ、そういえば最近筋トレ始めたんだよね」
私の足が止まった。
「なんで」
「健康診断で引っかかったから。体重じゃなくて体脂肪率ね。筋肉が少ないって言われて」
筋肉が少ないと言われた人間の腕が、どうしてあんなに。
「もともと少し体動かしてたし、すぐ戻ると思う。続くかどうかはわからんけど」
「そう」
「なんか反応うっす」
「続けたほうがいいと思う」
口が滑った。
田島がこちらを見た。私も田島を見てしまった。四年間、こんなにまともに田島の顔を見たことがあっただろうか。目が、思ったより大きかった。
「……なんで?」
「健康のため」
「そりゃそうか」
その後は特に会話もなく、会社に戻った。
夜、家に帰って、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、私はもんもんと考えた。
好きになったのかもしれない。田島のことを。でも確信が持てない。腕が太くなっただけで好きになるなんて、そんな単純な話があるだろうか。いや、あるかもしれない。人間の感情なんて単純なものだと何かで読んだことがある。でも四年間何も感じなかったのに、腕一本で引っくり返るのか。引っくり返るのかもしれない。引っくり返るのかな。どうなんだろう。もんもん。
スマホが振動した。田島からメッセージだ。心持ち急いで画面をタップする。
「プレゼン資料、明日の朝確認してもらえる?」
仕事の話だった。私は「わかった」とだけ打って送信する。
それだけなのに、なんとなく笑ってしまった。
木曜の朝、私は少し早く出社した。
田島はもういた、いつもどおり半袖で。自分のデスクでPCの画面を見ている。
「今日は早いな」
「資料確認するって言ったから」
「ああ、ありがと」
田島が送ってきた資料のファイルを確認する。構成は悪くないが、三ページ目のグラフの単位が抜けていた。
「三ページ、単位が抜けてる」
「マジか、助かった」
「どういたしまして」
田島が修正する間、私は自分のメールを処理を済ませる。
普通だった。いままでの四年間と何も変わらない朝だった。
でも私はもんもんしていた。もんもんしながら、ぐんぐんと、何かが育っているような気がした。それが何なのかはまだわからない。わからないまま、私は返信メールを打つ。
田島の腕は今日も太かった。




