もんもんぐんぐん
男は、疲れた脚を休ませるように壁によりかかり、風に揺れるゴールデンシャワーの花房を眺めている。朝から和菓子屋を探し歩き続け、日はすでに傾きかけていた。
目指す先は、街一番という評判の和菓子屋『にに庵』。
何人もの街の人に道を尋ね、その通りに進んでいるはずなのに、一向にたどり着く気配がなかった。自分はこんなにも方向音痴だったのか。まさか街の人たちが、そろって間違う、あるいは嘘をつくなんてこともあるまい……男の心の中にもんもんとした不安が募っていく。
もう諦めて帰ろうか、そう思ったその時、ふと足が止まった。眼の前には黒字で『にに庵』と書かれた真っ白な暖簾。
ようやく辿り着いた、という安堵感と、なぜ今まで見つけられなかったのかという疑念が、男の中でぐんぐんと渦巻く。
この店に来るのは初めてのはずだったが、どうにも見覚えがあるような気がするのは、いかにも老舗といった風情の店構えのせいかもしれない。
懐からハンカチを取り出し額の汗を拭うと、暖簾をくぐり店に入った。
店内を漂う甘い香りと程よく冷えた空気が、男を心地よく出迎えた。
「いらっしゃいませ」
和服の老女が、勘定台の奥で微笑んでいる。男は軽く会釈を返すと、店内を見て回った。ショーケースの中には、色とりどりの繊細な細工を施した和菓子が並んでいる。職人を大事にしている店なのが見て取れる仕事だった。さすが評判になるだけのことはある、と男は目を細めた。
店内を見て回っていると、白いういろうの上に炊き上げた小豆が乗った、三角形の菓子が並んでいるのが目に入った。シンプルな形だが、なぜだかそれが気になり目が離せなくなった。何かがぐんぐんと湧き出してくるような、これを選ばざるを得ないという直感が働いた。
「これを十個いただこう」
「贈り物ですね。今年もご利用いただいてありがとうございます」
男は、老女が自分を誰かと勘違いしているのだろうと思ったが、あえてそれを口には出さなかった。
「将来有望な人物へ、投資のようなものです」
男には気にかけている少女がいた。赤い帽子をかぶった、聡明で物怖じしない少女だ。いずれ世に出る器だと、男は踏んでいた。
かつて、ある商人は王族の中に将来の王を見いだし、財を投じてその地位を押し上げたという。男もまた、それに倣うつもりだった。
包みを受け取って店を出ると、空がぐんぐんと灰色に変わり、遠雷が響き始めた。突然の夕立に、店先でどうしたものかと立ち尽くしていると、背後から声がかかった。
「こちらをどうぞ」
老女が、黒い傘を差し出してきた。ビニール傘ではない、しっかりした造りの黒い傘だった。
「ありがとうございます。後日返しに来ますので」
そう言うと、老女は少し不思議そうに首をかしげた。
「いいえ、この傘はあなたのものですよ」
「私の? ですか?」
やはり誰かと勘違いをしている。男はそう思ったが、せっかくの好意を無下にするのも躊躇われた。
「ありがとうございます。この御恩は必ず」
男はそれだけ返すと、傘を広げて歩き出した。その後姿が見えなくなるまで、老女は店先で立ち続けていた。
§
「ごめんください」
男が、少女のもとに着いた頃には、夕立はすっかり治まっていた。
「はーい」
元気な声で現れたのは、赤い帽子をかぶった活発そうな少女。男が知る限り、この少女はいつも赤い帽子をかぶっている。
「あ、おじさん!」
男の顔をみると、大きな瞳を輝かせた。
「元気そうで何より。これはお土産だ」
包みを手渡すと、少女は男を招き入れた。
「開けてもいい?」
「もちろん、そのために持ってきたんだ」
少女は『にに庵』と書かれた包装紙を丁寧に剥がしていく。日本の包装というのは美しいものだな、と男はぼんやりと考えながら、その様子を見守っている。
やがて現れた三角の菓子を見ると、少女は相好を崩した。
「わあ、これ大好きなやつ! 食べていいの?」
「もちろんだとも。遠慮せず食べなさい」
「いっしょに食べよう」
少女は三角形の菓子を皿に載せると、男の前に押しやった。男は、小豆の粒を眺めてから、ひと口食べた。素朴な甘味が、歩き回って疲労していた身体に染みた。
「うまいな」
「おいしいね!」
少女は一心不乱に頬張っている。この子は、いつもこの菓子を喜んで食べる。
「また、これ持ってきてね」
「ははは、もちろんいいとも」
「約束だよ?」
「うむ」
「ずっとだよ!」
男の笑顔が、わずかに引きつった。少女の瞳は、男を見ているようで、その肩越しの何もない空間を見ていた。まるで、そこに誰かが立っているかのように。
振り返って見ても何もない。少女は、ただにこにこと笑っている。
「そこに何かあるのかい」
「ううん。なんでもない」
男はもう振り返らなかった。これは少女の他愛ないイタズラだ、そう言い聞かせた。
§
夜、帳面を開くと、見覚えのない行が混じっていた。「三角形の菓子、十個、六月」日付は同じで、年だけが違っていた。そのどれもが、男の字で書かれたものだった。
ふと『にに庵』の老女の言葉が頭の中で反芻された。
『今年もご利用いただいてありがとうございます』
軽い目眩を覚え、男は机に手をついた。
夏の夜空から何かがぐんぐんと降り注いだ。月の光より遠くから、静かに、優しく、男を抑えつけてくる。
男は震える手で、帳面をめくり続けた。どのページでも、六月の終わりはやって来ていた。どの六月でも、等しく菓子を買っていた。
少女はそこで、いつでも赤い帽子をかぶって待っていた。その後ろには、何人もの少女が、いつもと変わらぬ赤い帽子をかぶって、同じ笑顔で並んでいる。
「おじさん、ありがとう!」
その声に、もんもんと募っていた不安が、ふっと消え去った。
来年も再来年も、その先も、どれほど遠い世界の六月にも、菓子を買い少女に届ける。
男は深く息を吐くと、万年筆を手に取り、帳面に書きつけた。
『季夏置くべし』




