もんもんぐんぐん
『日本一クリーンで、住みやすい町。一番町へようこそ!』
町の入り口に掲げられた看板には、白地に鮮やかな青文字で大きくそう書かれている。
ゴミひとつ落ちていない清潔な町並み。美しい並木道。夜間でも明るく街を照らす街灯。
行政の表彰を何度も受けている一番町は、住みやすい町ランキングの常連であり、住民たちの誇りでもあった。
行き交う人々が笑顔で挨拶を交わし、公園では子どもたちが楽しげな声を上げ。とある街角では、地域猫が整然と列を成し人々から餌をもらっている。
「本当に、非の打ち所がないクリーンな町ですよね」
外から引っ越してきて間もない斎藤真美は、一番町の様子に感嘆の声を漏らした。
防犯カメラの多さに最初は戸惑っていた真美だったが、夫が「カメラは気にする必要はない、今どきは当たり前だよ」と言っていた。
実際、慣れてみれば別に何ということもなかった。
「ええ。ゴミの分別も、町の治安管理も、すべて住民同士の手で『完全徹底』していますから」
班長、広岡冴子は穏やかな笑みを浮かべて深くうなずいた。
——
引っ越してきて三日目、美咲は町内会の「新人研修」なるものに参加した。研修といっても、ゴミの分別表とパトロールの当番表を渡されるだけの簡素なものだ。ただ、分別表の項目には見慣れない欄があった。
「――『要観察』?」
「ああ、それはこちらで管理しますので、斎藤さんが気にする必要はありません」
班長は表を取り上げると、その欄だけを指でするりと隠すようにして、何でもないことのように微笑んだ。その仕草があまりに滑らかすぎることに、妙な胸騒ぎがもんもんと残った。
けれどそのもんもんは、翌日には消え去った。
ゴミ捨て場に一番乗りした美咲を、近所のおばあさんが満面の笑みで称えたのだ。
「あら、斎藤さん。分別、完璧じゃない。さすがねえ」
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。ただ「きちんとしている」というだけで認められる。
この素晴らしい町の一員として認められる。そんな単純な承認の心地よさに、美咲は自分でも驚くほど簡単に絆されていった。
——
一週間もすると、美咲は「パトロール隊」の見習いから、正式メンバーになっていた。
今夜は初めての夜回り、といっても、実際にやることは町内を懐中電灯の光を当てながら、隊員たちと歩くだけだ。
「ここの家、最近様子がおかしいんですよ」
班長の広岡が足を止めたのは、生垣に囲まれた古い一軒家の前だった。窓の奥にはぼんやりと明かりが点いている。
「様子がおかしい、というのは……?」
「先月、引っ越してきた方なんですけどね。町内会にも参加する意向をしめさないんです」
その言葉を聞いた真美がおや? というような顔をした。それに気づいたのか、広岡が急ぎ後を続けた。
「それは別にいいんです。町内会への参加は任意ですし。問題は、深夜に大きな声を出す。ゴミの分別も、いつも不完全。――こういう小さな綻びが、町全体の『クリーンさ』を損なうんです」
広岡の話し方は、いかにも深刻な問題を扱っているような口調だったが、その表情はにこやかなままだった。それのチグハグさが美咲には不気味に感じられた。
その家を通り過ぎて公民館に戻る道すがら、広岡はぽつりと言った。
「美咲さんは、もう立派な一番町の一員ですね」
その一言に、美咲の胸の奥で何かがぐんぐんと膨らんだ。認められている。必要とされている。
よそ者だった自分が、この完璧な町の内側に――住民たちの「本当の輪」に、確かに入りかけている。その実感は、抱いたばかりの違和感を軽々と塗り替えるほど甘美だった。
——
最後の「試練」は、何の前触れもなくやってきた。
深夜、公民館のに呼び出された美咲の前に置かれていたのは、一枚の書類だった。あの、生垣の家の住人の名前と、几帳面な字で綴られた「不適合報告書」。
「サインをしていただくだけで結構です」
報告書の内容は、あの住人がいかに町の平穏を乱す存在であるかについて綴られていた。それを目で追ううち、美咲にも怒りが湧いてきた。
とある文言に目が留まった。
『清掃対象』
報告書から顔をあげると、皆が美咲に注目していた。何かを確信しているかのような自身に満ちた笑顔で。
広岡も、周りを囲む住民たちの顔も、いつもと変わらず穏やかだった。その異様さが際立った。誰も、何も、隠していない。隠す必要すら感じていない。
美咲の中で、もんもんとした恐れが確かにあった。これにサインをすれば、後戻りはできない。けれど同時に、ぐんぐんと押し寄せてくる感覚もあった。ここまで受け入れてくれた人々を裏切れない。
この清潔で、優しくて、完璧な町の一部になりたい。その思いは、自分の意思か、同調圧力ゆえか、区別がつかないほど絡まり合っていた。
ペンを取る手は、驚くほどスムーズに動いた。
サインを書き終えると、拍手が起きた。誰かが美咲の肩を叩き、誰かが涙ぐんでいた。
広岡が美咲に手を差し出した。
「ようこそ、一番町へ」
看板の文字が、瞼の裏に浮かぶ。――日本一、住みやすい町。
その夜、美咲は生まれて初めて、心の底から安堵して眠りについた。自分がその「クリーンさ」を作る側に回ったのだという、静かな誇らしさと共に。
翌朝、いつものゴミ捨て場に、見知った顔が集まった。この町の安寧を脅かす懸念は、もうひとつもない。
いつものように町内パトロールを始めた美咲の足音は、ぐんぐんと力強く響いていた。




