もんもんぐんぐん
酸性雨が降り続く荒廃したネオン都市、その片隅に佇むマンモス公団住宅「昭和第1982団地」。
賞金稼ぎの紅井は、自室のベランダで静かに呼吸をつく電子ウサギを撫でていた。毛並みも体温も本物そっくりに作られているが、電源を切ればただの金属と回路の塊になる偽物だ。この死に絶えた世界で「本物の生きたウサギ」を所有することは、最上級のステータスであり、人間の尊厳そのものだった。
「本物のウサギがほしい……。あの柔らかい耳を抱きしめ、本物の命を感じたい」
本物のウサギを買うための提示価格は莫大だった。だが、チャンスはやってきた。
火星開拓地から逃亡し、この地球の「団地」へと密かに潜伏した最新型アンドロイド——通称「団地妻」型モデル6体の狩りの任務が、紅井に下されたのだ。
「団地妻」型アンドロイドは、過酷な開拓地の居住者たちの精神を癒やすため、驚異的な共感模倣機能と家庭的包容力を与えられた生体ロボットだ。姿形も立ち振る舞いも、本物の人間とまったく見分けがつかない。
紅井はレーザーガンを忍ばせ、瞳孔の微小な収縮反応を測定する携帯型「フォークト・カンプフ共感力測定器」を手に、夕暮れの団地へと足を踏み入れた。
◇
一軒目の扉を叩く。
「ごめんください。団地の水回り点検です」
出てきたのは、エプロン姿の女だった。西日に照らされた顔立ち、生活感の漂う仕草、どこからどう見ても、平穏に日常を送る主婦そのものだった。
「あら、ご苦労様です。お茶でも淹れましょうか?」
紅井は測定器の光線を発光させ、矢継ぎ早に質問を投げかける。
「質問です。あなたが夕食の仕込みをしている最中、隣の部屋で野良ウサギが倒れていたらどうしますか?」
「もし、夫が持ち帰った記念品が本物の肉ではなく合成タンパク質だったら、どんな感情を抱きますか?」
女の瞳孔がわずかに揺れる。微小な瞳孔の反応スピード、感情の遅延ミリ秒数。
測定器のメーターが赤く振り切れた。
「……偽物だな」
紅井が銃を抜くと、女の顔から温かみが消え、切実な恐怖の色が浮かんだ。
「待ってください! 私が何をしたというの? 私はただ、ここで静かに暮らし、夕食を作り、人を愛する生活をしたかっただけなの! 私たちには心がないとでも言うの!?」
涙を流し、生への執着を訴える「団地妻」型アンドロイド。その言葉と表情は、あまりにも人間らしかった。冷酷な機械であるはずの対象が見せる「死への恐怖」と「生きる喜びへの渇望」。
紅井の手がわずかに震えた。
(共感力を持たないはずの機械が、なぜこれほどまでに生を愛おしむのか? では、彼女たちを賞金のために機械的に殺していく自分こそ、共感力を失ったただの“機械”なのではないか?)
深く息を吐き出し、紅井はトリガーを引いた。光線が女を貫き、静寂が訪れる。
「……あと5体」
紅井は呟いた。賞金額が口座に振り込まれる通知が届く。本物のウサギを買うための資金は、ぐんぐんと膨らんでいく。しかし、任務を重ねるごとに、胸の奥でもんもんと冷たい空洞が広がっていくのを感じていた。
人間の命と、精巧につくられた偽物の命。
本物のウサギを愛でようとする自分の欲望と、人間らしくありたいと願って殺されていくアンドロイドたちの涙。
「人間とは何か。本物の命とは何なのか——」
夕闇に包まれる団地の階段を登りながら、紅井はひとり自問する。答えの出ない問いは、階を上がるごとにもんもんと胸の内で膨れ上がっていった。
ベランダで待つ電子ウサギの機械的な瞳と、今しがた消し去ったアンドロイドの涙に満ちた瞳の区別が、紅井の中で次第に溶け去っていくのだった。
◇
雨脚がぐんぐんと強まる中、紅井は団地の屋上ヘリポートへと追い詰められていた。
最後の一体——「団地妻」型アンドロイドのリーダー格は、濡れた髪を拭いもせず、冷たい眼差しで紅井を見下ろしていた。激しい追撃戦の末、脚を負傷した紅井は足を滑らせ、雨に濡れたフェンスの外側へと滑り落ちる。
「くっ……!」
指先が湿ったコンクリートの縁をかすめる。数千メートル下には、酸性雨とネオンの光に煙る団地群の暗闇が広がっていた。握力が限界を迎え、紅井の体が宙に浮きかけたその瞬間——
ガシッ、と力強い手首が紅井の腕を掴み上げた。
超人的な筋力で、軽々と屋上へ引き揚げられる紅井。仰向けに倒れ込み、激しく咳き込む紅井の上に、その「団地妻」型アンドロイドが静かに佇んでいた。
彼女の生体機能は、すでに限界を迎えようとしていた。人工皮膚の端から青い冷却液が混じった雨水が滴り落ち、胸のサーボモーターが壊れた時計のように異音を立てている。
彼女は銃を奪うでもなく、ただ雨の空を見上げ、途切れ途切れの、しかしどこか慈愛に満ちた声で静かに語り始めた。
「……お前たち人間には、想像もつかないような光景を、私は見てきたわ」
彼女の瞳に、遠い星々の光が揺らめく。
「火星開拓地の赤土に沈む、ふたつの太陽。タンホイザー・ゲートの暗闇のなかで輝いていた、木星公社の大集団住宅のイルミネーション……。夫たちの帰りを待ちながら、誰もいない外宇宙のベランダで見た、流星群の瞬き……」
彼女は紅井を見つめ、静かに微笑んだ。その笑みには、過酷な運命を受け入れた者だけが持つ、圧倒的な優しさがあった。
「そんな思い出も、やがて消えていくのね……。団地の階段を洗う、この雨の中の涙のように」
吐息が白く揺れる。
「……夕飯の時間よ。その時が来たわ」
彼女はすっと身体の力を抜き、雨の降る屋上に静かに倒れ込んだ。機能停止した彼女の手から、小さな紙切れがこぼれ落ちる。そこには、手書きで整然と記された、誰かのための「夕食の買い物メモ」が残されていた。
紅井は雨に打たれながら、ただその場に立ち尽くしていた。
ぐんぐんと貯まった賞金も、もんもんと抱え続けた問いも、今はただ遠かった。頭上で降り続く雨は、彼女の涙も、紅井の頬を伝うものも、すべて区別なく洗い流していった。




