もんもんぐんぐん
「それじゃあ、行ってくる」
悟の声から、若干の緊張が伝わってくる。くるりと踵を返すと、悟はフィジーク大会出場者用の入口へと歩いていく。
その背中に向かって、私は声をかけた。
「頑張って!」
悟は振り向かずに、ガッツポーズだけ返してきた。
さて、私は一般者入口だ。
会場に入った瞬間、独特の匂いがした。日焼けオイルと制汗剤と、たくさんの人の熱気が混ざった匂い。ロビーには筋肉の塊みたいな人たちがうろうろしていて、私はその中で借りてきた猫のように縮こまっていた。
悟から渡されたチケットには「一般観覧席」と書いてある。開場したばかりだというのに、もう客席はもんもんとした熱気で満ちていた。隣の席の体格のよい男性が、双眼鏡片手に「今年は粒ぞろいねえ」と誰にともなく呟いている。私にはまだその「粒」の見分け方がわからない。
——
悟と付き合い始めて三ヶ月になる。あの半袖の朝から半年、いろんなことがあった気がするし、案外何も変わっていない気もする。悟は相変わらず七時台に出社するし、私は相変わらず八時半に転がり込む。違うのは、休日に二人でジムに行くようになったことと、悟の腕がさらに太くなったことと、私がその腕に触る権利を得たことくらいだ。
そして今日、悟は初めてフィジークの大会に出る。
パンフレットを開くと、悟の写真が載っていた。ポージング練習中のものらしく、いつもの気の抜けた顔とは違う、妙に真剣な目をしている。あの目を、私は月曜の朝以来知っている。
「次、Bブロックでーす」
アナウンスが響いて、私の心臓がぐんぐんと速さを増した。悟はBブロックだ。手のひらに汗がにじむ。悟本人より私のほうが緊張しているんじゃないかと思う。
実を言うと、この日のために掛け声を練習した。誰にも言っていないが、家で鏡に向かって掛け声の練習を一ヶ月間続けた。声が裏返らないように、恥ずかしさで消え入りそうにならないように。悟は絶対に「そんなのいらない」と言うタイプだから、内緒で練習した。
舞台袖から選手たちが出てくる。統一されたブーメラン型のトランクスに、テカテカのオイルを塗った身体。最初は誰が誰だかわからなかったが、三番目に出てきた選手を見て、私は思わず息を止めた。
悟だ。
半袖のシャツで隠れていた部分が、全部見えていた。四年間隣の席に座っていた同期の身体とは思えなかった。もんもんと悩んでいた月曜日の私に教えてあげたい。あの日感じていたものは、これに比べたらまだ序の口だったんだよ、と。
審査員の前でポーズを取るたびに、会場から「おお」という声が漏れる。悟は表情を変えない。真剣な目のまま、出番を待っている。
いよいよ悟の番が来て、名前がコールされた瞬間、私は立ち上がっていた。三日間、鏡の前で練習した言葉が、勝手に喉から飛び出す。
「シルエットきれい!」
思ったより大きな声がでた。周りの視線が気になる。恥ずかしい。でも止まらない。
「バランス最高ー!」
フロントダブルバイセップス、サイドチェスト、と決められた型を淡々とこなしていく。緊張しているはずなのに、堂々として見えた。
「ウエスト細いー!」
舞台の上で、悟がこちらを見た気がした。一瞬だけ、真剣な目の奥がふっと緩んだように見えた。気のせいかもしれない。でも止められない。
「キレてるー! 」
自分でも何を叫んでいるのかよくわからなくなってきた。でも悟がポーズを決めるたびに、身体のラインが本当にきれいで、絞れていて、言葉が勝手に口から出てくる。
「 ぐんぐん仕上がってるー!」
最後にそれだけ叫んで、私は力尽きたように座り込んだ。喉がひりひりする。
——
結果は三位だった。初挑戦にしてはすごいと思う。表彰式のあと、着替えを済ませた悟が客席まで会いに来てくれた。まだ肌がオイルでテカテカしている。
「聞こえてたよ、さっきの」
「……聞こえないでほしかったんだけど」
「前から鏡の前で練習してたやつでしょ」
心臓が止まるかと思った。
「なんで知ってんの」
「練習の声、聞こえてたから」
もんもんと悩んで内緒にしていたつもりが、最初から筒抜けだったらしい。恥ずかしさと安堵が同時にぐんぐんと込み上げてきて、私は何も言えずに悟の胸のあたりを軽く叩いた。硬かった。
「三位、おめでとう」
私がそう言うと、照れ笑いを浮かべながら賞状を見せてくれた。そこには田島悟と大きく書かれていて、なんだか私まで誇らしくなった。
「ありがと。来年は一位狙う」
「じゃあ来年はもっと語彙増やして応援する」
「それは勘弁して」
悟が笑った。つられて私も笑った。会場はまだもんもんとした熱気に包まれていて、その中で私は、ぐんぐんと膨らんでいく気持ちを持て余していた。




