もんもんぐんぐん
時給千五百円、未経験者歓迎、髪色自由。あと「魂の色も自由」
求人サイトで見つけたちょっとかわった項目に惹かれて応募した先は——
『ファミリーレストラン もんもんぐんぐん』
変わった募集を出すだけあって、変わった店名だな、と思った。ネットで調べてみると店舗は所謂ロードサイド。駐車場も広く、長く地元に愛されている店という評判だった。
わたしは行ったことは無かったが、自転車で二〇分ほどの距離。案外近くだ。
「はじめまして! わたしは宮ノ森心です。よろしくお願いします」
「はじめまして。宮ノ森さんの担当をします野楠理です。よろしくね」
バックヤードで出会ったオサムさんは、黒髪ロングを一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけた、凛とした佇まいの人だった。胸元にある金のバッジはバイトリーダーの証らしい。シゴデキ感のあるオサムさんにはピッタリだと思った。
「今日はホール専属で、私の後ろについて動いて。分からないことは、その都度聞いて」
「はい、よろしくお願いします」
簡潔な指示、無駄のない動き。厳しいと聞いていたけれど、実際は的確なだけだった。私は少しずつ、この人の背中を追いながら仕事を覚えていった。
初めての飲食店は私が想像していたよりもハードだった。
「本日のおすすめ」を聞いて、メニューにない「明日のおすすめ」を頼んでくるおばあちゃん。
「明日のおすすめは今日は出せません。明日いらしてください」
「明日も来たらいいのね」
「ええ、その意気です」
大きな登山用リュックの中からノートパソコンを取り出すと、パワーポイントと指し棒をつかって、連れの女性にプレゼンをはじめる男性客。
「スライドは五枚以内がおすすめです。長くなるとデザートのアイスが溶けますので」
「……なるほど」
男性客は、忠告に従い六枚目は開かなかった。
オサムさんは女性客に、そっと片目をつぶってみせる。
他にも個性的なお客様が絶え間なく来店しつづける。それら一つ一つに、オサムさんはにこやかに、けれど有無を言わさぬ迫力で対応してく。その凛々しい姿を見て、憧れの感情が私の中でぐんぐん湧き出てきた。
——
異変に気づいたのは、開店から二時間ほど経った、ランチの一番混む時間帯だった。
店内はほぼ満席。順番待ちのお客様まで出ている状況で、私はずっと空いている席が気になって仕方がなかった。
九番テーブル。四人掛けの、壁際の席。そこだけが、ぽつんと空いている。
「オサムさん、九番、空いてますけど、あちらのお客様をご案内しても……」
順番待ちの列を指しながら聞くと、オサムさんは一瞬だけこちらを見て、それから静かに言った。
「九番は、今日は使わないの」
「え、でもこんなに混んでて」
「うん。それでも、今日は使わない」
理由は言われなかった。聞き返す間もなく、次のオーダーに呼ばれてしまった。もんもんとした気持ちは抱えたままだ。
——
午後、少し客足が落ち着いた頃、私は片付けの途中でふと九番テーブルの方を見た。
オサムさんが、そこに立っていた。
誰もいない椅子の前で、静かに、じっと。まるで、そこに誰かがいるかのように、目線を椅子の高さに合わせて。口元は微かに動いていたけれど、声は聞こえなかった。
声をかけようとして、やめた。何か、踏み込んではいけない空気があった。
オサムさんは十秒ほどそうしていて、それから何事もなかったかのように、いつもの表情でホールに戻ってきた。
「あの、さっき、九番のところで……」
「ああ、見てた?」
「はい。何をされていたんですか?」
オサムさんは少し考えるような間を置いてから、いつもの落ち着いた声で言った。
「うちの店、開店した日からずっと、木曜日の九番だけは誰も座らせないの。先代からの決まり」
「決まり、ですか」
「うん。理由は、あなたがもう少し慣れてから話す」
はぐらかされた、というより、まだ話すタイミングではないと判断された、という感じだった。私はそれ以上聞けなかった。
——
その後も、九番テーブルは空いたままだった。
団体客が入って店内がぎゅうぎゅうになっても、待ち客が外まで並んでも、九番だけは誰にも案内されなかった。他のスタッフも、客さえも当たり前のようにその席を避けていた。まるで、そこだけ店の間取りから抜け落ちているみたいに。
夕方、片付けをしていた時。私はふと、九番テーブルの椅子が、少しだけ引かれていることに気づいた。誰も座っていないはずなのに、まるで今誰かがそこに居るかのように。
背筋がぞわりとした。
わたしは足早にレジ付近まで戻り振り返ると、オサムさんがまた九番の傍に立っていた。今度は、私にも聞こえるくらいの声で、何かを話していた。
「……もんもん」
それから、少し間を置いて。
「……ぐんぐん」
誰もいない椅子に向かって、ただそれだけを、まるで挨拶のように。
私は動けなかった。オサムさんはこちらの視線に気づくと、いつもの表情に戻って歩いてきた。
「聞かれちゃったか」
オサムさんはいたずらがバレた幼子のように舌を出した。
「あの、九番の椅子……」
「ああ。オーナーが座っているのよ」
「オーナー……?」
九番にチラリと目をやるが、誰も座っているようには見えない。オサムさんは少し黙ってから、私の目をまっすぐ見て言った。
「うちでは、九番にいらっしゃる方を、そう呼んでるの。この店の一番古いお客様の名前みたいなもの」
「今日はもう遅いから、詳しい話はまた今度。ただ、一つだけ言っておくと」
「はい」
「あなたが怖がる必要は、何もない。オーナーは、ただそこにいらっしゃるだけ」
それ以上は、何も教えてくれなかった。
——
閉店後、休憩室で片付けをしながら、私はずっとそのことを考えていた。九番テーブル。誰も座らせない席。椅子が動く音。オサムさんの、あの椅子に向かって話しかける姿。
怖い、というのとは少し違う感覚だった。むしろ、オサムさんがあれだけ自然に、当たり前のようにそこと向き合っている様子を見ていると、恐怖より先に、不思議な穏やかさのようなものを感じた。
「今日一日、色々あったでしょう」
休憩室に入ってきたオサムさんが、水を差し出しながら言った。
「はい色々と……でも正直、九番のことがずっと気になってます」
「そうよね。無理もない」
「教えてもらえますか。今度でいいので」
「うん、約束する。あなたがもう少しこの店に慣れて、九番のことを、ただの『怖いもの』じゃなく、ちゃんと受け止められるようになったら」
「受け止める……」
「この店で働いてると、色んなことに、もんもんと悩む日が来ると思う。九番のことも、その一つ」
オサムさんはそこで、少しだけ表情を緩めた。
「でも、悩んだ分だけ、ちゃんとぐんぐん前に進める。それがこの店の名前の意味だって、私は思ってる」
「オサムさんも、悩んだことがあるんですか、九番のことで」
「いっぱいあったわよ。最初は、あなたと同じくらい戸惑ってた」
意外だった。今のオサムさんからは、戸惑いなんて微塵も感じられなかったから。
「来週も入る?」
「はい。まだ分からないことだらけですけど」
「そう。じゃあ今度は、九番の近くを通る時、軽く会釈だけしてみて。それだけでいいから」
「会釈、ですか」
「うん。それだけで、オーナー、たぶん喜ぶと思う」
私はまだ、九番テーブルに何がいるのか、何も知らない。
もんもんと悩むことも多いが、この店で働くというのは、きっとそういうことの連続なのだ。
それでも、明日その席の前を通るとき、少しだけ頭を下げてみよう。
いずれオーナーについても、教えてもらえる日が来る。そう考えると、不思議とやる気がぐんぐん高まっていくのを感じていた。




