もんもんぐんぐん
西暦二二一七年。人類は感情を数値化することに成功した。
俺の名前はカイ・モンドウ、三十一歳、感情省第七管理局勤務。感情省というのは、エモチップのデータを収集・分析して社会秩序の維持に役立てる政府機関だ。要するに、人々の感情を監視する仕事をしている。
頭に埋め込まれた感情計測チップ、通称「エモチップ」。それは喜び悲しみなど、人の持つ感情が0から100までの数字に変換されて、スマートウオッチの小さな画面に表示されるのだ。
エモチップは様々な功罪を生み出した。
「お前の喜びは今42じゃないか、俺への愛情が足りない」数値が可視化されたことで、お世辞やゴマすりなどが通用しなくなり、太鼓持ちは淘汰された。「悲しみが3しかないくせに泣くな」とか、「怒りが78もあるなら先に言え」など、感情の解釈を巡る争いが勃発し、離婚率は1.7倍、職場のハラスメント訴訟は3.2倍になった。
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問題は、俺のチップだ。
「もんもん:∞」
最初はチップが壊れているとおもった。だが、メーカーに持ち込んだら「異常なし」と言われた。
「もんもん」という感情は、エモチップの通常計測項目に存在しない。存在しないはずの感情が、俺のチップにだけ表示されていて、しかも無限大だった。
メーカーは「表示バグです」と言った。感情省の技術部は「観測したことのない数値です」と言った。俺の上司は「気にするな、仕事しろ」と言った。
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感情省第七管理局のオフィスは、地下四十階にある。
窓がない。太陽がない。全員が画面を見て、全員のエモチップの数値を全員が把握していて、誰かの怒りが50を超えると自動的にカウンセリング室への案内が表示される、そういう場所だ。
俺の隣の席のリン・チェイは、喜び67、安心82、集中71という優秀な感情セットで仕事をしていた。整った容姿、整った感情。
「モンドウ、また∞出てる」とリンが言った。
「出てるね」
「もんもんって何なの、結局」
「わからない」
「技術部に聞いた?」
「技術部でもわからないらしい」
「そう、大変ね」
リンは自分のデスクに戻った。彼女の集中が73に上がった。
俺は自分の腕を見た。小さな画面に「もんもん:∞」と表示されている。無限大のもんもん。測定不能のもんもん。規格外のもんもん。
俺は何に対してもんもんしているのか、自分でもわからなかった。
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午後、俺に呼び出しがかかった。
感情省長官室。地上三階。窓がある。太陽がある。
長官のドミトリ・グンゼフは、七十代の老人で、人類最後の「エモチップ非装着者」だった。チップが普及する前の世代で、宗教的信条を理由に装着を拒否し続け、特例で認められている唯一の人間だ。
「座れ」とグンゼフは言った。
俺は座った。
「お前のチップのデータが上がってきた」とグンゼフは言った。「もんもん、無限大」
「はい」
「何を感じている」
俺は少し考えた。
「わかりません」
「わからないから、もんもんなのか」
「そうかもしれません」
グンゼフは窓の外を見た。
「儂はな、チップがない。だから感情が数字で見えない」
「はい」
「不便か、と聞かれることも多いが。儂は不便じゃない、と答えておる」
「なぜですか」
「かつて人類は、数字で見えないものを恐れていた。だが今は、数字で見えていることが恐ろしい」
グンゼフは一息おいて続けた。
「数字で見えないものが、ある。数字が見えていると、人間は全部わかったと思いこむ」
俺は自分の画面に表示されている意味不明の『もんもん:∞』に目をやった。
「俺のもんもんは、バグじゃないんですか?」
「バグかもしれん……だがバグが正しいこともある」
もんもんを肯定されたのは初めてだった。グンゼフの言葉を聞いて、俺の中で何かがぐんぐんと育ち始めていた。
長官室を出て、帰りのエレベーターの中で俺は腕を見た。数値は変わらない。無限大のまま、静かに光っている。
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その夜、俺は感情省のデータベースに不正アクセスした。
やってはいけないことだ。でもやった。理由はわからない。ただ、もんもんしたからだ。
俺が調べたのは、エモチップ導入以前の感情研究データだ。二十世紀から二十一世紀にかけて人間が残した、数値化される前の感情の記録。日記、手紙、詩、小説、歌。
俺は貪るように読み漁り、分かったことが合った。
人間はずっと、もんもんしていた。
好きな人に言えなくてもんもんして、仕事がうまくいかなくてもんもんして、自分が何者かわからなくてもんもんして、未来が見えなくてもんもんして、それでもぐんぐん生きていた。もんもんしながらぐんぐん進んでいた。数値にならない何かを抱えたまま、前に進んでいた。
エモチップはそれを全部数字にした。
数字にしたことで、数字にならないものが見えなくなったのだ。
俺のチップだけが「もんもん:∞」を表示しているのは、数値化できないものを、正直にできないと言っているだけかもしれない。
俺はデータベースを閉じた。
腕の画面を見る。
「もんもん:∞」
数値にならない別の何かが、俺の中でぐんぐんと育っていた。
俺はそれでいいと思った。全部わかる必要はない。全部数字になる必要もない。もんもんしながら、ぐんぐん生きていけばいい。




