もんもんぐんぐん
「もんもんぐんぐん」
その八文字を書き残して、人が消えた。
消えた人物は髙山あきら。怪奇系動画配信者として知られていた。
ライブ配信中に忽然と姿を消した当初は、ヤラセだという意見が大半だった。
しかしその後、何日経っても配信が再開されず、フォロワーが通報したのだ。
警察が訪れた時には外鍵だけでなく、内側からも鍵がかけられた所謂完全密室。手がかりになりそうなものは何も残されていなかった——その書き置きを除いて。
規制線の前で、えるまは食べかけのサンドイッチを口に押し込んでいた。パンが分厚い。自分の顔より大きいのではないかという代物で、えるまはそれを両手で抱えるようにして齧っていた。
「ちょっと、そこの方」
制服の警官が近づいてきた。えるまはもぐもぐしながら振り返った。
「ここは関係者以外——」
えるまは無言でコートのポケットから名刺を一枚取り出して差し出した。咀嚼は続いている。
警官が名刺を見て、眉を寄せた。
「……調律師?」
えるまはパンをゴクリと飲み込むと、「そうです」と言った。
「調律師って、楽器の?」
「まあそんなようなものです」
「いや、まあそんなようなものでは困りますよ。ここは捜査現場で——」
しばらく押し問答は続けられた。
えるまは特に急ぐ様子もなく、その間もサンドイッチを齧り続ける。
警官が二人になり、三人になりかけたところで、奥からスーツ姿の女性が歩いてきた。
「何か問題でも?」
「これは、久米警視!」
その場にいた警官たちの背筋が伸びる。
久米歩警視。キャリアである彼女がこんな現場に現れるのは珍しいことだった。
久米は警官たちに囲まれたえるまを見ると、笑顔を見せた。
「よく来てくれたわね」
「——うん」
えるまはサンドイッチを咀嚼しながら答えた。
「通していいわよ」
「でも、このひとは——」
「今回は、もう別案件。領分が違うのよ」
説明はそれだけだったが、ひとりの警官が何かに思い当たったようだった。
「ハッ、それでは失礼いたします!」
敬礼をすると、他の二人の背を押すようにして去っていった。
えるまは、まだ半分残っているサンドイッチを名残惜しそうに袋にもどすと、久米警視に会釈をして規制線をくぐった。
三〇三号室の扉を開けた瞬間、えるまは足を止めた。
脈打っていた。壁が、床が、見えない何かのリズムで微かに震えているような感触。
調律師であるえるまの鋭敏な感覚は、狂った律を捉えていた。
えるまの視線が、机の隅で止まった。
小さなトンボ柄の巾着袋。口が開いていて、中から黒ずんだ石のようなものが半分だけ顔を出している。それだけが、日常が溢れる部屋の中にあって、唯一異質な存在だった。
えるまは手帳に残された四文字を見た。
「もんもんぐんぐん」
書き残した相手は感じていたのだ、これが鳴り始めた瞬間から。
うまく言葉にできないまま、それでも確かに感じていたから、自分なりの名前をつけた。脈打つ何かを。ぐんぐんと侵食してくる何かを。
調律師としては、なかなか的確な命名だとえるまは思った。
そのとき、脈動が跳ねた。
足元から這い上がってくるような震えだった。頭の中に直接叩き込まれるような、不快なリズム。もんもんと揺れて、ぐんぐんと食い込んでくる。
えるまの平衡感覚が狂いはじめ、視界が滲んだ。
素早くコートのポケットに手を入れると、指先が細い金属に触れる。
そこから取り出された金属は音叉だった。
えるまは手首のスナップを効かせ鋭く鳴らす。
澄んだ音が、部屋に満ちた。
脈動が乱れた。
えるまはその隙間に割り込むように、音叉をもう一度、また一度と鳴らした。
リズムをずらし、周波数を食い違わせ、狂った律に不協和音を叩き込んでいく。
壁の震えが揺らぎ、床の感触が乱れた。
えるまは分厚い手袋をはめ、細かい文字が刻まれた木製の小箱を取り出した。床に置いて蓋を開ける。内側にも細かい文字が隙間なく刻まれていた。
音叉を鳴らし続けながら、手袋ごしに巾着袋を掴むと、拒絶するかのように脈動が強まった。
音律が歪む。音叉の音がわずかに濁った。平衡感覚が狂う。
えるまは奥歯を噛みしめると、巾着袋を箱の中に押し込み蓋を閉じる。次の瞬間、脈動は途切れた。
「……残り五つ」
えるまが小さく呟いた。
その直後、部屋の中央で空気が裂けた。
部屋の住人であった髙山が、吐き出されるように現れた。
床に膝をついて、肩で息をしている。目の焦点が定まるまで数秒かかった。
刻まれた文字の上を指でなぞると、箱は小さな音を立てて沈黙した。脈動が、止まった。
「なにが……」
髙山が掠れた声で言った。
「いったい何が起こったんだ?」
「あなたにはわからない。知るべきではないことです」
えるまは小箱をカバンにしまった。
「それ、動画で紹介しようとしてたやつ——」
「紹介できませんね。もうありません」
えるまは髙山を見下ろした。目は眠たそうで、しかし声は静かに硬かった。
「ひとつだけ覚えておいてください。素人が手を出してはいけない領域というものがあります」
髙山は口を開いたが、何も言えなかった。
「ネタが欲しいなら」
えるまは扉に向かいながら言った。
「本物に触れるのではなく、本物を知っている人間に話を聞きなさい。それが賢いやり方です」
部屋から出ると、警視が壁際に立って待っていた。えるまはカバンの上から小箱にそっと手を当てた。
「片付きましたか」
警視が言った。
「はい、今回はアタリでした」
その答えを聞いた警視の眉がピクリと動いた。
えるまは、カバンからサンドイッチの続きを取り出す。
「お腹が減りました」
警視はいつもと変わらぬえるまの様子に、安堵した表情で微笑んだ。
えるまは、ひらひらと手を振ると、サンドイッチの残りを齧りながら階段を下りていった。




