もんもんぐんぐん
西日が世界の縁に沈むころ、みるは毎日同じ場所に座って使い込まれた茶器を磨いていた。
その器には銘がない。誰が焼いたのかも、いつから縁の家に伝わっているのかも、もう誰も覚えていない。ただ、それを満たすべき秘薬の名前だけが、代々口伝で受け継がれていた。
つづ茶。
冷めるほどに澄んでいく、不思議な茶だった。
その日の客は、まだ若かった。縁を越えるにしては早すぎる、とみるは思ったが、何も言わなかった。縁を越える理由を尋ねるのは、この家業の作法ではない。
「お座りなさい」
客を縁側に座らせる。そこから見える庭はもう何十年も同じ姿で、いにしえの旋律のように吹く風にだけ揺れる。小さな草の一本一本が、まるで誰かが残した記憶の残滓のようだと、みるはいつも思う。覚えている者がいなくなっても、形だけは在り続ける。
湯を沸かす間、客はひび割れた空を見上げていた。割れ目から覗く緑色の光が、ゆっくりと脈打っている。
「あれは、何なのですか」
「世界の天蓋の、傷です」
客が黙ったので、みるは続けた。
「その向こうに、何があるのか。誰も名付けたことがない。だから、誰にも分からない」
天蓋の向こうを、何か巨きなものが泳いでいるのが見える夜もある。星の獣、と縁の者は呼ぶ。彼らは何も語らず、ただ雲の形を記憶に刻みながら、こちらをじっと見ているのだという。
茶が満ちる。器の中で、何かが小さく渦を巻いた。銀河だ、と昔聞いたことがあるが、それが比喩なのか本当にそうなのか、みる自身も知らない。
そのとき、地の底から低い律動が伝わってきた。
もん、もん、ぐん、ぐん。
足の裏から、骨を伝って、胸の奥まで届くような音だった。客の肩が小さく震える。
「いまのは……」
「鼓動です」
みるは静かに答えた。
「世界がまだ生まれる前から、眠ったまま動かし続けている鼓動。意味はありません。誰もその名を知らない。ただ、縁に近い者ほど、よく聞こえるだけです」
もん、もん、ぐん、ぐん。
律動はもう一度響き、それからまた地の底に沈んでいった。風が古い合図のようにささやき、庭の草が一斉に頭を垂れる。
「怖いことではないのですか」
「さあ」
みるは茶器を差し出した。
「世界は、ただ呼吸しているだけです。名づけられないまま、息をしている。それだけのこと」
客は両手で器を受け取り、しばらくその中の小さな渦を見つめていた。それから、一口含んだ。
胸の奥で、何か小さな火が灯るのが分かった。ただ確かに何かが満ちていく感覚。客はそれが何かを口に出すことはなかった。形にすべきでない想いがあるのを、もう理解していた。
誰かがいつか、この縁から旅立つ。その先が終着点なのか、新たな出発点なのか、みるには分からない。
ただ毎日、定められた場所に座り、変わらず茶器を磨き、代々受け継いできた秘薬を満たすだけだ。
客が立ち上がったとき、夜が静かに広がりはじめていた。無数の星が瞬きもせず、こちらを見ている。星の獣は何を思うのか、本当のところは分からない。
縁の向こうへと歩いていく客の足音が遠ざかる。みるは空になった茶器を見つめた。底に、まだ小さな銀河の名残が揺れている。
もん、もん、ぐん、ぐん。
地の底で、また律動が始まる。まるで次の旅人を迎える準備をするかのように。
みるはただ、湯を沸かす支度を始める。世界はこんなにも果てしなく在り、そして今日もまた、誰かがこの縁に座るのだろうから。




