もんもんぐんぐん
職場の昼休み、いつも使っていたコンビニが改装中で、代わりに路地を一本入ったところを歩いていると、古びた看板が目に入った。
白地に黒い文字で、ただ一語。
『EPIPHANY』
看板だけで他に何もない。ガラス張りの入口から中を覗くと、木目の床に、四人がけのテーブルが五つ。カウンターの奥で、白い割烹着を着た老人が何かを黙々と刻んでいる所をみると飲食店のようだが、昼時だというのに客のひとりもいない。普通に考えればハズレの店――だが、私は何かに導かれるように、扉に手を伸ばしていた。
――
引き戸を開けると、店内から『もんもんぐんぐん』という音が聞こえてきた。
正確には、厨房の奥からそういう音がしている。何か特殊な調理器具を使っている音なんだろうか? ともかく聞いたことがない音だった。
「いらっしゃい」と老人の穏やかな声。私も会釈した。
「お一人ですか」
「はい」
「では、こちらへ」
窓際の席に案内された。外には路地の石畳が見え、誰も歩いていなかった。メニュー表は一枚だけ、手書きのラミネートで、品書きはただ一行だった。
『もんもんぐんぐん 時価』
もんもんぐんぐん、聞いたことがない料理だ。老人の格好は和風だったが海外の料理を出す店なのかもしれない。時価というのが気になったが、ここまで来て注文しない手はない。
私は老人を呼んで、これをください、と言った。老人はまた会釈して、厨房に戻った。もんもんぐんぐん、という音が少し大きくなった。
――
待つ間、私は店内を眺めた。
壁に額が一枚かかっている。手書きの文字で、こう書いてあった。
『A sudden spiritual manifestation, whether from some object, scene, event, or memorable phase of the mind.』
確か、ジョイスの言葉だ。大学のころ読んだ『ダブリン市民』に、そういう一節があったような気がする。
エピファニー。神の顕現。日常のどこかに宿る、突然の啓示。
私はそれを読みながら、ふと自分がこの十年間、何を食べてきたのかを考えていた。コンビニのおにぎり、チェーン店のランチ、宅配のピザ、同僚との居酒屋。食べることに意味を求めたことは、たぶん一度もない。空腹を埋めることと、食事をすることの区別を、私はどこかで失っていた。
もんもんぐんぐん、という音がやけに耳に残った。
――
「お待たせしました」
老人は静かに料理を置いた。白い皿の上には、名前から受けた印象とは違い、繊細に料理が盛り付けられている。
これが、もんもんぐんぐんか。
きれいに整形された、正確な四角形。ゼラチン寄せのようなものだろうか、と思った。表面は半透明で、中には様々な具材が詰まっている。
鮮やかな断面。赤、緑、白、茶、橙。肉と思しきもの、野菜と思しきもの、あるいはまったく判断のつかない何か。色だけは鮮やかで、まるで小さな標本のように、様々な素材がそこに封じ込められていた。
湯気は立っていないが、かといって冷たくもなさそうだった。香りは覚えがあるのだが、何だったのか断言できない。野菜のいくつかは分かったが、肉の種類は判別できなかった。
「もんもんぐんぐんです」
「これは……何ですか」
「もんもんぐんぐんです」
老人は同じ言葉を繰り返す。それ以上の説明は無いようだった。
「ごゆっくり」軽く頭を下げると、老人は去っていった。
料理は洋風な見た目だが、ナイフやフォークは無く、箸が1膳添えられていた。
私は恐る恐る箸を取ると、もんもんぐんぐんをつついてみる。柔らかくぷるぷるした手応えはあるが、簡単には崩れない。
思い切って箸で突き崩し、一口大に取り分ける。まずは野菜の部分を食べてみることにした。
味、という言葉では足りなかった。それは確かに口の中にあって、舌の上で何かをしていたのだが、私の脳はそれを「味」として処理する代わりに、何か別のものが通り抜けた。
子どもの頃、帰り道に嗅いだ他所の家の夕飯の匂い。空腹を抱えて家に帰ると、母が台所で何かを炒めている。ランドセルを玄関に投げ捨てて、ただいまと叫んだ、あの感覚。あるいは、もっと前の、名前もつけられない何か。日常のどこかに宿る、突然の啓示。
私は咀嚼しながら、泣きそうになっていることに気づいた。目の奥が少し熱くなっていた。
――
気がついた頃には、箸は何もなくなった皿をつついていた。
老人はカウンターの向こうで、また何かを刻んでいた。路地には相変わらず誰も歩いていなかった。もんもんぐんぐん、という音は、厨房の奥からずっとしていた。まるでそれが店の呼吸であるかのように、規則正しく鳴り続けている。
会計のとき、老人に聞いた。
「もんもんぐんぐんは、何が入っているんですか」
私の問いに、老人は穏やかな笑みを浮かべた。
「入っているというより、出てくるものです」
私はしばらく、その言葉の意味を考えたが、すぐには分からなかった。しかし、分からないことが、この場合は正しいような気がした。
「ごちそうさまでした」
「またのご来店を、お待ちしております」
路地に出ると、昼の光が石畳に落ちている。会社へと戻る、私の足取りは軽かった。




