最終話:ま、いっか。そして、また。
翌朝、凛が目を覚ますと、キッチンから良い香りが漂ってきた。
昨日も、一昨日も、同じ香りで目が覚めた。
「(……もう慣れてしまった)」
凛は布団の中で、そのことに少し驚いた。
たった二日だ。なのに、この香りが「当たり前」になっている。
窓の外を見ると、二つの月がまだ薄く空に残っていた。
「(……今日で、最後だ)」
凛は、ゆっくりと起き上がった。
洗顔を済ませて縁側に出ると、ジハンキさんが明滅した。
『……オハヨウゴザイマス、リン様。……本日ノ精神的疲労度、過去最低値。……シカシ、別種ノ感情値、過去最高値デス。……「特別ナほうじ茶」ヲ、10円デ提供シマス』
「……別種の感情値?」
『……ジハンキニハ、分カリマス』
自販機が、それ以上何も言わなかった。
凛は、ほうじ茶を受け取りながら、その言葉の意味を考えないようにした。
キッチンでは、ソラが朝食の準備をしていた。
「あ、リンさん。おはようございます。今日は少し特別なものを作りました」
「特別、ですか」
「はい。最後の朝ごはんですから。ま、いっか! 腕を振るいました」
テーブルには、湯気の立つ料理が所狭しと並んでいた。
炊き立ての白米。焼き魚。出汁の効いた卵焼き。ぬか床さん渾身の漬物。そして、小さなおにぎりが三つ。
「ポコポコッ!(……我の漬物、誰も三種類目に手をつけておらぬ! 失礼な!)」
「あ、ぬか床さん。今食べます」
凛が三種類目の漬物を口に入れた瞬間、目が丸くなった。
「(……何これ。今まで食べた中で一番美味しい)」
「ポコポコッ!(……そうだろう。我が今朝、渾身の力を込めて漬けた特別仕様だ。リン殿への餞別だ)」
「……ありがとうございます、ぬか床さん」
「ポコポコッ!(……感謝は漬物を食べ尽くすことで示せ)」
チッチさんが、凛の席の前に立った。
「チチチッ!(……リン殿の分の箸は、我が特別に清めておいた。最高の状態で食べるがよい)」
「……ありがとうございます」
「チチチッ!(……別に、大したことではない)」
そっぽを向いたチッチさんの頬袋が、少し膨らんでいた。
ユウナが、おはぎを持ちながら現れた。
「リンちゃん! 今日は特別においしいおはぎも作ったわよ! ソラくんに頼んだの!」
「……朝からおはぎですか」
「いいじゃない! 最後の朝ごはんなんだから!」
ポチの三首が、それぞれ凛に擦り寄ってきた。
「ガウッ!(リンちゃん、今日で帰っちゃうのか?)」
「ウゥゥ(寂しいんだもん)」
「クゥン(また来てほしいもん)」
「……また来ます」
凛が言うと、ポチの三首が同時に尻尾を振った。
クロさんが、静かに凛の隣に来た。
「……ニャア(……最後の朝食だ。しっかり食べておけ)」
「……はい」
エリュシオンが、鳥箱から顔を出した。
「……今朝の湿度、特別に調整しました。食材の旨味が最大限に引き出される湿度です」
「エリュシオンさんまで……ありがとうございます」
「……当然のことです。マスターの料理を最高の状態で食べてもらうのが、私の使命ですから」
全員が揃ったテーブルは、いつものようにカオスで賑やかだった。
チッチさんがポチの行儀を叱り、ユウナがおはぎを食べすぎてソラに注意され、アレンが胃薬を飲みながら箸を持ち、ぬか床さんが「我の漬物が一番だ」と泡を立てた。
凛は、その光景を眺めながら、一口一口丁寧に食べた。
「(……美味しい。全部、全部美味しい)」
涙が出そうだった。
こらえた。
アレンが、胃薬を飲みながら凛の隣に来た。
「……泣くなよ」
「……泣いていません」
「目が潤んでるぞ」
「……漬物が染みただけです」
「……そうか」
アレンが、苦笑いをした。ソラが、凛のお茶を静かに注ぎ足す。
「リンさん、卵焼き、おかわりどうぞ」
「……ありがとうございます」
凛は、卵焼きを口に入れながら、この食卓を目に焼き付けた。
カオスで、うるさくて、でも温かい。
「(……こんな朝ごはん、今まで食べたことがなかった)」
朝食が終わると、ソラが言った。
「リンさん、出発まで少し時間がありますよ。村を歩きませんか」
「……いいんですか」
「ま、いっか! 最後にゆっくり見ていってください」
二人は並んで、村の中を歩いた。
ソラが歩くと、足元の地面から小さな花が咲く。それが、今は当たり前に見えた。
「(……二日前は、これを見て驚いたのに)」
「リンさん、最初に村に来た時のこと、覚えていますか」
「……もちろんです。ポチを見て、首が三つあると驚きました」
「あはは。ポチは喜んでいましたよ」
「チッチさんが掃除をしていて、元魔王だと聞いて固まりました」
「チチチッ!(……当然だ。我の格を理解したのだろう)」
いつの間にか、チッチさんがついてきていた。
「……チッチさんも来るんですか」
「チチチッ!(……見送りの練習だ。うるさいことを言うな)」
クロさんも、いつの間にか足元にいた。
「……ニャア(……散歩の邪魔はしない。ただ、歩きたかっただけだ)」
ポチも三首で走り回りながら、ついてきていた。
気づくと、住人全員が散歩に加わっていた。
「(……なんなんだ、この村は)」
でも、その賑やかさが、今は温かかった。
散歩の途中、ソラが畑に立ち寄った。
「ちょっとだけ、野菜の様子を見てもいいですか」
「……はい」
ソラが畑に入り、しゃがんで野菜を確認し始めた。
「あ、このトマト、もう少しで食べ頃ですね。……ま、いっか! リンさんが帰ってくる頃には、ちょうどいいかもしれません」
「(……帰ってくる頃、か)」
凛は、その言葉が嬉しかった。
「ソラさんは、毎日こうやって畑を見るんですか」
「はい。朝と夕方に。……前の世界では、植物を育てる時間なんてなかったですから。ここに来て、初めてやってみたんです」
「楽しいですか」
「楽しいですよ。育つのを見ているだけで、なんだか元気が出るんです。……ま、いっか! 不思議ですよね」
凛は、ソラが野菜を見る顔を見た。
本当に、楽しそうだった。
「(……この人は、こういう顔ができるんだ)」
凛は、自分が最後に楽しいと思って何かをしたのがいつだったか、思い出せなかった。
「リンさんも、何か好きなことはありますか」
「……研究、ですかね。うまくいっている時は、楽しいです」
「じゃあ、帰ってから、またうまくいくといいですね」
「……はい」
「ま、いっか! なんとかなりますよ」
凛は、小さく笑った。
「……ソラさんは、本当によく『なんとかなる』って言いますね」
「そうですか?」
「はい。でも……聞いていると、本当になんとかなる気がしてきます」
ソラが、少し照れたように笑った。
「それはよかったです。……ま、いっか! 呪文みたいなものですかね」
「呪文、ですか」
「はい。『ま、いっか』って言うと、難しいことが少し小さく見えるんです。僕はそう思っています」
凛は、その言葉を心の中で繰り返した。
「(……「ま、いっか」。難しいことが小さく見える)」
「(……研究所での失敗も、ここに来てしまったことも、全部「ま、いっか」で小さく見えていた気がする)」
「リンさん、どうしました?」
「……いえ。なんでもないです」
「ま、いっか!」
ソラが笑った。
凛も、笑った。
村の外れにある小さな丘に来た時、ソラが立ち止まった。
「ここから見る景色、好きなんですよ」
凛も立ち止まって、眺めた。
はざま村が一望できた。ログハウス。ジハンキさん。ハクさんのギルド。池。作業小屋。
「(……全部、覚えておこう)」
「リンさんは、元の世界で何の研究をしていたんですか」
「……転移魔法の研究です。別の場所に、一瞬で移動する魔法を」
「……じゃあ、今回のことも研究の一部になりましたね」
「……そうですね。図らずも」
ソラが笑った。
「研究、うまくいくといいですね。ま、いっか! なんとかなりますよ」
「……根拠は?」
「リンさんなら、なんとかなると思うから、ですかね」
凛は、その言葉に少し驚いた。
「(……この人は、私のことをどれだけ見ていたんだろう)」
「……ありがとうございます」
「ま、いっか! お礼を言われるほどのことじゃないですよ」
凛は、村の景色を眺めながら、静かに言った。
「……ここに来て、変わった気がします」
「どんな風に?」
「……『なんとかなる』って、思えるようになった気がします。少しだけ」
ソラが、嬉しそうに笑った。
「それはよかったです」
「(……この笑顔が、なんか、ずるい)」
凛は、そっぽを向いた。
昼過ぎ、アレンが凛を呼び止めた。
「……少しいいか」
「はい」
二人は、縁側に並んで座った。
「……帰るんだな」
「……はい」
「そうか」
アレンが、珍しく真面目な顔をした。
「……一つだけ、言っていいか」
「何ですか」
「……この村に来た人間は、みんな変わって帰っていく」
「変わる、というのは」
「……『ま、いっか』が身につくんだよ。ソラさんのあの言葉が、じわじわ染みてきて。気づいたら、外の世界の完璧にしなきゃとか急がなきゃとかが、どうでもよくなってる」
凛は、アレンの言葉を聞きながら、研究所での自分を思い出した。
「……それは、悪いことですか」
「いや」
アレンが、首を振った。
「……俺は、良かったと思ってる。ここに来る前の俺は、勇者としての責任とか、使命とか、そういうものに縛られすぎてた。でも今は」
「今は?」
「……ま、いっか、って思える。それだけで、だいぶ楽になった」
凛は、アレンを見た。
「アレンさんは、帰らないんですか。本当に」
「……今は、まだここがいい。でも、いつかは帰るかもしれない。その時は、また『ま、いっか』って思いながら帰るんだろうな」
アレンが苦笑いをした。
「……リンさんも、向こうに帰ったら、きっと変わったことに気づくと思うぞ。今まで辛かったことが、少し楽に見えるようになってるはずだ」
「……そうでしょうか」
「ソラさんの『ま、いっか』は、伝染するから」
凛は、小さく笑った。
「……もう伝染っています」
「だろうな」
「……アレンさん、ありがとうございました。被害者同盟、楽しかったです」
「……俺もだ。また来い。次来た時は、もっと強烈な被害を一緒に受けよう」
「……喜んで」
二人は、声を出して笑った。
アレンと話し終えた後、凛は一人で池のほとりに座った。ピピさんが、水面からひょっこり顔を出した。
「ピピピッ!(……リン様。帰るのですか?)」
「……はい」
「ピピピッ!(……そうですか。……私も最初は、帰りたかった。竜宮城が恋しかった)」
「今は?」
「ピピピッ!(……今は、ここが一番好きです。ソラ様がいるから)」
凛は、池の水面を見つめた。
「……ピピさんは、なんでソラさんが好きなんですか」
「ピピピッ!(……ソラ様は、私を「ピピさん」と呼ぶんです。元リヴァイアサンとか、水龍とか、そういう難しい名前じゃなくて。……それだけで、なんだか嬉しかった)」
凛は、その言葉を聞いて、胸が温かくなった。
「(……ソラさんは、みんなをちゃんと見ている。名前で呼んで、好きなものを覚えて、さりげなく気にかける)」
「ピピピッ!(……リン様も、また来てほしいです。私、リン殿のこと好きです)」
「……ありがとうございます、ピピさん。私も好きです」
「ピピピッ!(……じゃあ、また来てくれますか?)」
「……はい。必ず」
ピピさんが、嬉しそうに水しぶきを上げた。
凛は、その水しぶきを浴びながら、小さく笑った。
「(……この村の全員が、好きだ)」
そして、その中心にいる人のことを考えた。
「(……なんなんだ、あの人は)」
その答えは、まだ分からなかった。
でも、またここに来れば、少しずつ分かる気がした。
夕暮れが近づいてきた。
住人たちが、村の外れに集まってきた。
凛は、一人一人と向き合った。
「チチチッ!(……達者でな、リン殿。……掃除道、忘れるなよ)」
「忘れません。チッチさんも、お元気で」
「チチチッ!(……我に「元気で」は不要だ。……ま、また来た時には、続きを教えてやろう)」
「……ありがとうございます」
「ニャア(……また来い。我が許可する)」
「……クロさん、ありがとうございました」
「ニャア(……感謝は不要だ。……ただ、貴様は悪くなかった)」
クロさんが、静かに目を閉じた。
ポチが、三首で凛に飛びついてきた。
「ガウッ!(絶対また来てな、リンちゃん!)」
「ウゥゥ(待ってるんだもん!)」
「クゥン(ずっと友達だもん!)」
「……はい。また来ます」
凛は、三首を順番に撫でた。
「ポコポコッ!(……リン殿。元気でな。……我のエキスの瓶、大切に使うがよい)」
「はい。ありがとうございました、ぬか床さん」
「ポコポコッ!(……また、ソラ殿のおにぎりを食べに来い。その時は、最高の漬物を用意しておく)」
「……楽しみにしています」
エリュシオンが、静かに霧を放った。
「……リン殿。元の世界でも、湿度には気をつけなさい」
「……はい。ありがとうございました、エリュシオンさん」
ユウナが、凛をぎゅっと抱きしめた。
「リンちゃん、また来てね! 次来た時は、もっとゆっくりしていくのよ!」
「……はい。ユウナさんも、お元気で」
「私は女神だから大丈夫よ! でも……リンちゃんがいなくなると、少し寂しいわ」
ユウナが、少し目を潤ませた。
「……私も、寂しいです」
アレンが、軽く手を上げた。
「……また来い」
「……はい。また来ます」
最後に、凛はソラの前に立った。
夕暮れの光が、麦わら帽子を金色に染めていた。
「……お世話になりました」
「こちらこそ。来てくれてよかったです」
「……ソラさん」
「はい?」
凛は、言葉を探した。
「(……なんで帰りたくないんだろう。なんでこんなに、この人のことが気になるんだろう)」
でも、その答えは、まだ凛には分からなかった。
分からなくて、いい気がした。
「……ソラさん、一つだけ聞いていいですか」
「はい、何でしょう」
「……前の世界では、しんどかったんですか」
ソラは、少し考えた。
「……どうなんでしょうか。毎日働いて、休む暇もなかったのかな……。でも、それが普通だと思って……しんどいとも気づいていなかったかもしれませんね……」
「……私も、そうでした」
「そうですか」
「……ここに来て、初めて「休む」ということが分かった気がします」
ソラが、静かに笑った。
「それは良かったです。……リンさん、向こうに帰っても、たまには休んでくださいね。ま、いっか! 休んでも、なんとかなりますから」
「……はい」
凛は、深く頷いた。
「(……なんでこの人は、こんなに自然に大切なことを言えるんだろう)」
「ソラさん」
「はい」
「……また来てもいいですか」
「もちろんです。いつでも来てください。……ジハンキさんが、ほうじ茶を用意して待っていますから」
『……了解シテイマス。10円デ、イツデモ』
ジハンキさんが、タイミングよく明滅した。
凛は、思わず笑った。
「……分かりました。また来ます」
「ま、いっか! 待っていますよ」
凛は、門に向かって歩き出した。
一歩、二歩。
「リンさん」
ソラの声に、凛は立ち止まった。
「……元気でいてください」
「……はい」
凛は、それだけ言って、
門に向かって歩き出した。
凛は、最後にもう一度、村を振り返った。
夕暮れに染まるログハウス。ジハンキさんの明滅する光。池に映る二つの月の影。
チッチさんが、そっぽを向いたまま小さく手を振っていた。クロさんが、静かに目を細めていた。ポチが三首で尻尾を振っていた。ぬか床さんがポコポコと泡を立てていた。エリュシオンが霧をひと吹きした。ユウナが目を潤ませながら笑っていた。アレンが、軽く手を上げていた。
そして、ソラが笑っていた。
「(……全部、覚えておこう)」
凛は、深く息を吸った。
はざま村の空気が、肺いっぱいに広がった。
門に踏み込んだ瞬間、光が溢れた。
はざま村の景色が、遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、ポチの「ガウッ!(また来てね!)」という声だった。
気づくと、凛は魔法研究所の自分の席にいた。
窓の外は、いつもの一つの月だった。
「(……帰ってきた)」
しばらく、凛は動けなかった。
体は研究所にある。でも、気持ちはまだ、あの村にいる気がした。
机の上を見ると、小さな10円玉が一枚置いてあった。
それと、小さなメモ。
『マタイツデモ来テクダサイ。ジハンキヨリ。(10円デ「魂が洗われるほうじ茶」、イツデモ出セマス)』
凛は、10円玉を手のひらに乗せた。
温かかった。
不思議と、ソラの手のひらみたいだと思った。
「(……また行けるかな)」
研究所の廊下から、同僚の声が聞こえてきた。
「神崎! 昨日から連絡が取れなくて心配したぞ! どこに行っていたんだ!」
凛は、10円玉をポケットにしまいながら、立ち上がった。
「……少し、遠いところに行っていました」
「遠いところ? どこだ?」
「……ま、いっか! なんとかなりましたから」
同僚が、きょとんとした顔をした。
「……神崎、なんか変わったか?」
「そうですか?」
「……なんか、顔が柔らかくなった気がする」
凛は、窓の外の一つの月を見た。
「(……また行こう。今度は、もっとゆっくり)」
それだけで、胸の中が温かくなった。
「ま、いっか」
10円玉が、ポケットの中で温かかった。
凛は、もう一度だけ窓の外を見た。
一つの月が、静かに輝いていた。
でも凛には、その隣に、もう一つの月が見えた気がした。
凛は、小さく笑いながら、研究所の窓を開けた。
夜風が、頬を撫でた。
どこか、はざま村の空気に似ていた。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました!
凛ちゃんの旅、いかがでしたか?
「ま、いっか」が
少しでも伝わっていたら嬉しいです。
本編も毎日更新中です!
よかったらそちらも
読んでいただけると嬉しいです
▼本編はこちら
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またいつか、はざま村で
会いましょう。
ま、いっか!




