第2話:勇者と、もう一人の常識人
はざま村の朝は、今日も世界の常識を10円単位で削り取るような清々しさに満ちていた。
凛が目を覚ますと、窓の外からスコップの音が聞こえてきた。
ソラだ。
今日も鼻歌を歌いながら、畑を耕している。肩にはアカさん。側にはポチ。
「(……早い。というか、毎日これなのか)」
凛が顔を洗って縁側に出ると、ジハンキさんが明滅した。
『……オハヨウゴザイマス。リン様。……本日ノ精神的疲労度、昨日比47%減。……「目覚めのほうじ茶」ヲ、10円デ提供シマス』
「……昨日より疲労が減っている」
凛は、差し出されたほうじ茶を受け取りながら、それが少し嬉しかった。
そこへ、ログハウスの勝手口から、見知らぬ青年が現れた。
麦わら帽子ではなく、くたびれた冒険者の装備。腰には聖剣……のように見えるが、よく見ると栓抜きとして使われた跡がある。
青年は凛を見た瞬間、目を丸くした。
「……お前、誰だ? まさか、また新しい被害者か?」
「……被害者?」
「ああ。この村に迷い込んだ人間のことだよ。俺はアレン。一応、勇者をやっている」
アレンは、深い溜息をついた。
「いつ来た?」
「……一昨日です」
「そうか。……まだ二日か。じゃあ、まだ常識が残ってるな」
「残ってます。かろうじて」
アレンが、ジハンキさんに10円を投入した。
『……アレン様。本日ノ胃痛指数、MAX。……「特製胃薬(超)」ヲ提供シマス』
「……毎朝これだよ」
アレンが胃薬を飲み干した。
凛は、その姿に親近感を覚えた。
「……あの、聞いていいですか」
「何だ?」
「ソラさんって、何者なんですか」
アレンは、遠い目をした。
「……俺もずっとそれを聞きたかった」
午前中、アレンと凛は縁側に並んで座っていた。
いつの間にか、二人の間には被害者同盟が自然に結成されていた。
「最初に驚いたのは何だった?」
「ぬか床が元邪神だと知った時です」
「俺は聖剣を雑に扱われた時かな……最近は、台車で大陸を半周したしな……」
「台車で……大陸を?」
「ソラさんが『ちょっと移動に使おう』と作った台車が、因果律を無視して走るんだよ。乗った瞬間、景色が消えて、気づいたら数百キロ先にいた」
凛は、昨日のソラの棚の修理を思い出した。
「……棚を直したら、神殿になっていました」
「それはまだ軽い方だ」
アレンが苦笑いをした。
「あの人、自分がやってることの規模を、全然分かってないんだよ。『ちょっとした作業』のつもりで、世界を書き換えてる」
「……でも、本人は『ま、いっか』で済ませる」
「そう。それが一番やばい」
二人は同時に溜息をついた。
「慣れますか?」
凛が聞くと、アレンは少し考えた。
「……慣れない。でも、気づいたら慣れようとしなくなる」
「どういう意味ですか」
「……この村にいると、『おかしい』とか『ありえない』とか、どうでもよくなってくるんだよ。ソラさんの『ま、いっか』が、じわじわ感染してくる」
凛は、昨夜自分が「ま、いっか」と呟いていたことを思い出した。
「(……もう感染している気がする)」
昼過ぎ、事件は起きた。
ソラが「ちょっと村の水路を整備しますね」と言い出したのだ。
「(……整備、か。棚の時もそう言っていた)」
凛とアレンは、顔を見合わせた。
「逃げますか?」
「……見ておいた方がいい。覚悟を決める意味でも」
二人は、安全な距離を保ちながら、ソラの作業を見守った。
ソラが、村の外れにある水路を覗き込んだ。
「うーん。少し流れが悪いですね。……よいしょっと」
ソラが右手を水路に当てた。
次の瞬間。
ゴォォォォォン!!
「「っ!?」」
水路から、虹色の光が溢れ出した。
水が、信じられないほど清らかな輝きを放ちながら、川上へと逆流し始める。
「(……逆流している。物理法則が逆流している)」
「(……見慣れてるはずなのに、毎回驚く)」
ピピさんが池から飛び出してきた。
「ピピピッ!(ソラ様! 水路が聖なる龍脈に進化しています! 村の地下全体が、浄化されていきますよ!)」
「あ、そうですか。それはよかった。ま、いっか!」
ソラが満足そうに手を払った。
村の上空に、薄っすらと虹が架かった。
「……」
「……」
凛とアレンは、しばらく無言だった。
「……水路の整備で、龍脈が進化しました」
「……うん」
「……なんとかなってますね」
「……なんとかなってるな」
二人は、再び深い溜息をついた。
夕方、アレンが胃薬の追加をジハンキさんに求めていると、凛が隣に立った。
「……アレンさんは、帰らないんですか。元の世界に」
アレンは少し黙った。
「……帰ろうと思ったことは、何度もある」
「でも?」
「……気づいたら、帰るタイミングを失ってた」
アレンが、遠くを見た。
「この村にいると、外の世界がどうでもよくなってくるんだよ。……ソラさんが『ま、いっか』って言うたびに、俺の中の『帰らなきゃ』が少しずつ薄れていく」
「(……分かる気がする)」
凛は、二つの月が出始めた空を見上げた。
「……私、帰り方を探しています」
「そうか」
「でも……正直、急いでいない自分がいます」
アレンが、凛を見た。
「……感染、早いな」
「……そうみたいです」
二人は、思わず笑った。
その笑い声を聞きつけたソラが、作業小屋から顔を出した。
「あ、二人とも仲良くなったんですね。よかった。……ま、いっか! 夕ごはん、作りますね」
ソラが笑顔で引っ込んだ。
「(……なんなんだ、この人は)」
凛は、今日何度目かのその言葉を、心の中で繰り返した。昨日より少しだけ、その言葉の温度が違った気がした。
被害者同盟が結成されて、三十分が経った。
縁側に並んだ二人の前に、チッチさんが現れた。
「チチチッ!(……リン殿。少しよいか)」
「は、はい」
「チチチッ……。(……貴様の魔力の質は、なかなか高い。我が見たところ、素質がある。……ついては、我が直々に『掃除道』を伝授してやろうと思うのだが……)」
「え、あの……」
「チチチッ!(……断るという選択肢はないぞ)」
チッチさんの目が光った。
凛は、アレンに助けを求めた。
「……諦めろ。俺も最初、三日間みっちり掃除論を叩き込まれた」
「三日間!?」
「チチチッ!(……アレンは飲み込みが遅かったからな。リン殿は一日で十分だろう)」
「一日でも十分多いです!」
凛の抗議を、チッチさんは涼しい顔で無視した。
「チチチッ!(……まず、塵というものは単なる汚れではない。世界の因果が乱れた結果、物質として現れたものだ。つまり、掃除とは……)」
チッチさんの掃除哲学が、再び始まった。
アレンが、そっと凛の肩を叩いた。
「……頑張れ」
「逃げないでください!」
一時間後。
凛は、なぜかメモを三ページ取っていた。
「チチチッ!(……ふむ。飲み込みが早い。アレンより遥かに優秀だな)」
「……俺も聞こえてるからな」
アレンが遠くから呟いた。
そこへ、ユウナがお茶を持ってやってきた。
「お疲れ様! ゼノンの授業、長いわよね。私も最初やられたわ」
「女神でもやられるんですか」
「そうなのよ! 『神の威光があろうと、塵の前では平等だ』って言われて……まあ、反論できなかったわ」
ユウナが凛の隣に座った。
「ねえ、リンちゃん。ちょっと聞いていい?」
「何ですか?」
「ソラくんのこと、どう思う?」
凛は、お茶を吹き出しそうになった。
「……どうって、どういう意味ですか」
「いや、なんとなく。昨日から、ソラくんを見る目が気になってたから」
「……別に、普通です」
「そう?」
ユウナが、にやにやと笑った。
「……なんですか、その顔は」
「ふふふ。私、一応女神だから、人の心が少し分かるのよ」
「……」
「ま、いっか! 急がなくていいわよ。この村、時間はたっぷりあるから」
ユウナがソラの口癖を使いながら、立ち上がった。
「(……女神に「ま、いっか」を使われた)」
凛は、顔が熱くなるのを感じながら、お茶を一口飲んだ。
夕方になった。
凛がぬか床さんの前を通りかかると、声をかけられた。
「ポコポコッ!(……リン殿。少しよいか)」
「……はい」
「ポコポコッ!(……我は長く生きた。邪神として世界を腐敗させようとした頃から、ぬか床として野菜を漬ける今まで。いろんな者を見てきた)」
「……はあ」
「ポコポコッ!(……ソラ殿のような者は、初めてだ。あの御方は、我らを変えようとしない。ただ、あるがままを受け入れて、『ま、いっか』と笑う。……それだけで、我らは変わっていった)」
凛は、樽を見つめた。
「……ぬか床さんは、変わって良かったですか」
「ポコポコッ!(……最初は不本意だった。だが今は……このナスの旨味を極める日々が、案外悪くない。……貴様も、難しく考えるな。この村にいる間は、『ま、いっか』でよいのだ)」
凛は、しばらく黙っていた。
「(……元邪神に、人生論を教わっている)」
でも不思議と、その言葉は胸に刺さった。
夕食前、凛はソラが料理をする姿を、こっそり観察していた。ソラは、鼻歌を歌いながら、丁寧に野菜を切っていた。
その手元を見ていると、不思議なことに気づいた。
「(……この人、誰かのために作っている時、本当に楽しそうだ)」
チッチさんの好きな小さめのおにぎりを別に用意して。ポチの三首分、お皿を三つ並べて。クロさんのために、魚を丁寧に骨抜きして。
「(……全員のことを、ちゃんと見ている)」
凛が黙って見ていると、ソラが振り返った。
「あ、リンさん。お腹空きましたか? もう少しで出来ますよ」
「……手伝えることはありますか」
凛が思わず言うと、ソラは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お箸を並べてもらえますか。人数分……あ、ぬか床さんの分はいらないですね。ま、いっか!」
「……分かりました」
凛は、お箸を手に取りながら思った。
「(……この人は、なんで誰にでもこんなに優しいんだろう)」
魔法研究所では、誰かのために料理をする人なんていなかった。みんな、自分のことで精一杯だった。
「(……私も、そうだった)」
「リンさん、どうしました?」
「……何でもないです」
凛は、お箸を並べながら、小さく笑った。
「(……なんなんだ、この人は)」
その言葉の意味が、少しずつ変わってきていた。
夕食の時間になった。
テーブルには、ソラが作った料理が所狭しと並んでいた。
村の棚田で採れたお米の炊き立てご飯。はざま村特産の野菜を使った味噌汁。そして、ぬか床さんが丹精込めて漬けた、琥珀色に輝く漬物。
問題は、それを囲む面々だった。
チッチさんが、自分専用の小さな椅子(ソラが端材で作った)に座り、箸を構えていた。
クロさんが、ソラの隣の特等席で丸くなっている。
ポチの三首が、それぞれ違う方向を向きながら、尻尾を振っていた。
エリュシオンが、鳥箱から顔を出して「湿度、最適です」と静かに霧を放っている。
ぬか床さんが、樽ごとテーブルの端に鎮座していた。
ユウナが、既におはぎを二個食べ終えていた。
そしてアレンが、胃薬を飲みながら箸を持っていた。
「(……これが、毎日の夕食だ)」
凛は、その光景を見渡しながら、深呼吸をした。
「リンさん、どうぞ。今日は特製の味噌汁です。村の大根と、ぬか床さんのエキスを少し分けてもらいました」
「ポコポコッ!(……我のエキス、惜しみなく提供したぞ。感謝するがよい)」
「ありがとうございます、ぬか床さん」
凛が頭を下げると、ぬか床さんが「ポコポコッ!(……殊勝な態度だ)」と泡を立てた。
一口、味噌汁を飲んだ瞬間。
「(……美味しい。なんでこんなに美味しいんだ)」
体の芯から温まるような味だった。疲れが溶けていくような、不思議な感覚。
「お口に合いましたか?」
「……はい。とても」
ソラが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、凛は目を逸らした。
「(……なんで目を逸らしているんだ、私は)」
夕食が進むにつれ、テーブルはどんどん賑やかになっていった。
「チチチッ!(ポチ! そのような勢いで食べるな! 行儀が悪いぞ!)」
「ガウッ!(でもご主人の料理、美味すぎるんだもん!)」
「ウゥゥ(三首で争わないの!)」
「クゥン(俺が一番好きだもん!)」
「……三首が、全部違うことで喧嘩している」
凛が呟くと、アレンが「毎日これだ」と苦笑いをした。
「ユウナさん、おはぎはもう七個目ですよ」
「いいじゃない! ソラくんのおはぎは別腹なの!」
「チチチッ!(……女神のくせに、食欲だけは人間以上だな)」
「うるさいわね、ハムスター!」
「ニャア(……騒がしい。我の食事の邪魔をするな)」
「エリュシオンさん、また湿度が上がってきていますよ」
「……失礼。マスターの料理があまりに完璧で、感情が乱れました」
「ポコポコッ!(……我も同意だ。このぬか漬け、我ながら傑作だ)」
凛は、そのカオスな食卓を眺めながら、気づいたら笑っていた。
声を出して、笑っていた。
「……リンさん、笑ってくれましたね」
ソラが、嬉しそうに言った。
「……昨日も笑いましたよ」
「昨日は少しだけでしたから。今日は声が出てましたよ」
凛は、また頬が熱くなるのを感じた。
「(……この人、ちゃんと見ている)」
「……うるさい食卓だったので」
「そうですか。ま、いっか! 賑やかな方が美味しいですよ」
夕食が終わり、片付けをしていると、アレンが凛の隣に来た。
「……どうだ。二日目の夜は」
「……思ったより、悪くないです」
アレンが、少し驚いた顔をした。
「早いな」
「そうですか?」
「俺は一週間、ずっと『帰りたい』って思ってたぞ」
「……私は、最初から帰り方を探していたのに、気づいたら探すのを忘れていました」
アレンが苦笑いをした。
「この村、嫌いじゃないだろ?」
「……否定できません」
「だろうな」
アレンが、遠くを見た。
「……ソラさんのせいだよ。あの人の『ま、いっか』が、じわじわ効いてくる。気づいた時には、もう手遅れだ」
「手遅れ、ですか……」
「悪い意味じゃない。……ただ、外の世界の急がなきゃとか完璧にしなきゃとかが、どうでもよくなってくるんだよ。それが、怖いような、心地いいような」
凛は、アレンの言葉を聞きながら、研究所での自分を思い出した。
いつも締め切りに追われて。いつも完璧を求めて。いつも、誰かの目を気にして。
「(……ここでは、誰も私に完璧を求めない)」
「リンさん」
アレンが、真面目な顔で言った。
「帰り方、焦って探さなくていいと思うぞ。……ソラさんが『なんとかなる』って言う時、本当になんとかなるから」
「……経験談ですか」
「ああ。俺が保証する」
凛は、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
夜、凛が客間に向かおうとすると、廊下でソラとすれ違った。
「リンさん、少しいいですか」
「……はい」
「明日、帰り方を一緒に探しましょうか。ユウナさんに頼めば、何か分かるかもしれないので」
凛は、その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが揺れた。
「(……帰り方を、探してくれる)」
当たり前のことだ。凛はここの住人ではない。帰るべき場所がある。
なのに、なぜか、その言葉が少し寂しかった。
「……ありがとうございます」
「ま、いっか! 急がなくていいですよ。リンさんのペースで」
ソラが笑った。
「……ソラさんは、私が帰ることを、残念とか思わないんですか」
凛は、自分でも驚くほど、正直な言葉が出ていた。
ソラは、少し考えた。
「……帰るべき場所があるなら、帰った方がいいと思います。でも」
「でも?」
「また来たくなったら、来てください。ここは、ずっとここにありますから」
ソラの言葉は、シンプルだった。
でも、凛の胸に、じわりと温かく広がった。
「(……また来たくなったら)」
「……分かりました」
凛は、廊下に立ったまま、ソラの背中を見送った。
胸の中の何かが、また揺れた。
「(……なんなんだ、この人は)」
今日何度目かのその言葉が、また違う意味を持っていた。
凛は客間に戻り、布団に入った。
窓の外に、二つの月が輝いている。
「(……明日、帰り方が見つかったら)」
凛は目を閉じた。
その続きを、自分でも考えるのが怖かった。
第2話まで読んでいただき
ありがとうございます!
アレンと凛の
被害者同盟、いかがでしたか?
この二人の組み合わせ、
書いていてとても楽しかったです。
いよいよ次が最終話です。
最後までお付き合いください。
ま、いっか!




