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影人形


バルトだった。

いや、バルトだった者…だろうか


かつて太っていたであろう体は今や痩せ細り、 肌は灰色に変色し、目は虚ろに白く濁っている。 口からは淡い黒い霧が絶え間なく漏れ、 指先は長く伸び、爪が異様に尖っていた。 時折、体がビクビクと痙攣し、 低い呻き声のようなものを漏らしている。



影の主の声が、再び頭の中に響いた。




「……どうだ? これが、お前が探していたバルトだ。 私の霧を深く吸い込みすぎ、 欲と恐怖に囚われた『影人形』と化した。 まだ息はあるが…… もう『人間』とは呼べまい。」



影の主は玉座に腰を下ろしたようなシルエットになり、 長い腕を組むようにしてヨハクを見下ろす。



「連れ帰るなら、今ここで私の許可を乞え。 だが…… 妻の元へ戻した時、 彼女がこの姿を見てどうなるか…… お前は想像できるか?」




バルト(影人形)は、鎖の中でゆっくりと顔を上げ、 白く濁った目で、ヨハクの方をぼんやりと見つめている。 その視線には、わずかに「助けて」というような、 弱い光が残っているようにも見えた。


影の主は静かに、ヨハクの次の言葉を待っている。



「バルトと話す許可を頂けるだろうか? それ次第で、連れ帰るか決めようと思います。」



影の主は巨大な黒い玉座に腰を下ろしたようなシルエットで、 ゆっくりと長い腕を組んだ。 霧の奥から、低く愉しげな笑い声が響いてくる。



「……ほう。 まだ話してみたいというのか。 面白い……お前は本当に優しいのか、それとも愚か者か……」 



影の主は少し間を置いてから、淡い黒い霧を指先から放った。 その霧がバルトの鎖に絡みつき、ガチャリと音を立てて鎖が落ちる。



「よかろう。 短い時間だけ、許してやる。 だが…… あまり長く話すと、私の霧がさらに深く染み込んで、 もう二度と話せなくなるぞ。」



バルト(影人形)は、鎖が緩んだ瞬間、 体をガクガクと震わせながらゆっくりと顔を上げた。 白く濁った目が、ヨハクの方をぼんやりと捉える。


彼の口から、掠れた、霧混じりの声が漏れる。



「……誰……だ……? お前は……ギルドの……? 助けに……来たのか……?」



声はひどく弱々しく、時折途切れながらも、 確かに「人間だった頃のバルト」の面影を残していた。 しかし、言葉の端々に黒い霧が混じり、 体からは絶え間なく淡い煙が立ち上っている。


バルトはよろよろと一歩近づこうとして、鎖に引っかかり、膝をついた。 白い目でヨハクを必死に見つめながら、震える声で続けた。



「……妻が……頼んだのか……? 俺は……まだ……生きてる…… 連れて……帰ってくれ…… お願いだ……」



その言葉の後半は、ほとんど呻き声に近くなり、 体が激しく痙攣した。 影の主の霧が、再び少し濃くなり始めている。


影の主の声が、頭の中に冷たく響く。



「……時間は少ないぞ、ヨハク。 話したいことがあるなら、早くするがよい。 私の忍耐は……そう長くない。」



バルトは白く濁った目で、ヨハクをじっと見つめ、 助けを求めるように手を少しだけ伸ばしている。


触れようと手を伸ばしかけ、許可されているのは話す事だけだと思い出した。影の主が観ている。



「バルト、今のお前はあまりに変わり果て、 連れ帰ってもお前だとわかるかどうか……。 それでも帰りたいか?」



その言葉が玉座の間に響いた瞬間、バルトの体がビクッと大きく震えた。


白く濁った目が、ゆっくりと焦点を結ぼうとする。 霧混じりの掠れた声が、途切れ途切れに漏れ出した。



「……わかる……かどうか……?」



バルトは自分の灰色に変色した手を見つめ、 長く尖った爪を震わせながら、苦しげに笑ったような息を吐いた。



「……俺は……もう……こんな姿…… 妻に……見せられるか……? いや……見せたくない…… でも……」



彼は鎖に繋がれたまま、ゆっくりと膝をつく。

体から立ち上る黒い霧が、激しく揺れる。



「……それでも……帰りたい…… 家に……

帰りたいんだ…… 妻の……顔を……もう一度……

見たい…… たとえ……この姿で…… 怖がられても……

嫌われても…… 俺は……まだ……バルトだ……

あいつの……夫だ……」




バルトの声は次第に弱くなり、 最後の方はほとんど嗚咽のような、霧の混じった呻きに変わっていった。 白い目から、黒い霧と一緒に、淡い涙のようなものが一筋、こぼれ落ちた。


影の主は玉座の上で低く笑った。



「……ふふっ。 見ろ、ヨハク。 欲と恐怖に塗れたこの男が、 まだ『夫』であろうとしている。 なんて哀れで、なんて美しい執着だろう……」



影の主の長い腕が、再びゆっくりと伸びてきて、 バルトの肩に軽く触れた。 バルトの体がピクリと痙攣する。



「……さて、時間だ。 ヨハク、お前の答えを聞こう。

この変わり果てたバルトを、 妻の元へ連れて帰るか?

それとも…… ここで『死んだ』ことにして、 遺品だけを持ち帰るか?」



影の主の声が、冷たく、しかしどこか期待を込めて響いた。


バルトは白く濁った目で、ヨハクを必死に、 すがるように見つめ続けている。



「影の主よ、ここにあるバルトの物を全て捧げます。 代わりにこのままでもかまいません。 バルトを連れ帰らせて頂けぬだろうか?」



その言葉が黒い玉座の間に響いた瞬間、影の主はゆっくりと長い腕を広げた。 霧が激しく渦を巻き、角のようなシルエットがわずかに前傾する。



「……ほう……」



低く、深く、愉しげな響きが頭の中に直接響いてきた。



「バルトの物を全て捧げ…… そして『このまま』でも構わない……か。 お前は本当に優しいのか、それとも…… ただの甘い夢想家か……」



影の主はバルトの方を一瞥し、再びヨハクに視線を戻した。 長い腕がゆっくりと動き、バルトの鎖をガチャリと鳴らしてさらに緩めた。



「面白い取引だ。 私は人間の執着が好きだと言ったな。 お前は今、まさにその執着を…… バルト自身と、妻への想いと、 自分の『善意』ごと、私に差し出そうとしている。」



影の主の声が、少しだけ冷たさを増した。



「……だが、残念だな、ヨハク。 その程度の貢物では足りない。 バルトはすでに私の霧を深く吸い込みすぎている。 このまま連れ帰れば、彼は道中で崩れ落ち、 妻の元へ着く前に『ただの黒い霧の塊』になるだろう。 それでも……本当に構わないと言うのか?」



バルトは鎖の中で体を震わせ、白く濁った目でヨハクを見つめている。 その視線には、かすかな希望と、深い絶望が混ざっていた。


影の主は玉座の上でゆっくりと身を乗り出し、 長い腕をヨハクのすぐ目の前まで伸ばしてきた。 冷たい霧の指先が、優しくヨハクの頰を撫でる。



「……一つ、提案してやろう。 私がバルトを『人間らしい姿に戻して』やり、 妻の元へ連れて帰れる状態にしてやる。 その代わり……」




影の主の声が、甘く、しかし危険な響きを帯びた。



「お前から、 『この世界に来た理由』…… つまり、お前が元の世界からここへ来た記憶と、 その『目的』や『想い』の一番深い部分を、 全て頂く。


どうだ? それでもバルトを連れ帰りたいか? それとも…… ここで諦めて、遺品だけを持って帰るか?」



影の主は静かに、ヨハクの答えを待っている。 バルトは弱々しく手を伸ばし、掠れた声で「……お願い……」と呟いた。


霧がヨハクの体をゆっくりと包み込み、 影の主の視線が、心の奥深くまで覗き込んでいる。



「私がこの世界の者でないとご存知ですか… 元の世界の記憶は構いません、 戻りたいという想いも捧げましょう。 それでご容赦頂けないだろうか?」



影の主はヨハクの言葉を聞くと、長い沈黙を落とした。



黒い霧が激しく渦を巻き、玉座のシルエットがゆっくりと前傾する。 角のような影が、まるで興味深げに揺れた。


やがて、低く、深く、頭の奥に直接響く声が返ってくる。

その声には、これまでで一番強い愉悦と、わずかな驚きが混ざっていた。



「……ふふ……ふふふっ…… 面白い……本当に面白い…… お前は、自分が『異邦人』であることを、 よく自覚しているのだな。」



影の主の長い腕が、ヨハクの胸のあたりにそっと触れた。 冷たい霧の指先が、心臓の鼓動を優しく、しかし確実に探るように動く。



「……元の世界の記憶…… そして『戻りたい』という想い…… それはお前にとって、 最も根源的な執着の一つだろう? それを……バルト一人のために、 喜んで捧げようというのか。」



影の主は低く笑い、声に甘い毒を滲ませた。



「よかろう。 その取引……受け入れよう。」



次の瞬間、ヨハクの頭の中に柔らかい、しかし確かな喪失感が広がる。


遠い記憶──元の世界の風景、家族や友人の顔、 この異世界へ来てしまった瞬間の驚きと戸惑い、 そして「いつか戻りたい」という、胸の奥にずっとあった淡い願い…… それらが、霧に溶けるように、静かに、しかし確実に薄れていく。


痛みはない。 ただ、大切な色が心の奥から抜け落ちていくような、 静かな虚しさだけが残った。


影の主は満足げに息を吐き、長い腕を引いた。



「……美味しかった。 異世界からの想い…… とても稀少で、甘く、切ない…… 久しぶりに満足したぞ、ヨハク。」



影の主は玉座の上でゆっくりと手を振った。 すると、バルトの体を包んでいた黒い霧が、少しずつ薄れ始める。

灰色だった肌がわずかに元の色を取り戻し、 尖っていた爪が少しだけ短くなり、 白く濁っていた目が、ほんの少しだけ人間らしい光を取り戻す。


バルトは鎖の中で体を震わせ、掠れた声で呟いた。



「……あ……あぁ…… 体が……軽い…… ありがとう……ありがとう……」



影の主の声が、再び響いた。



「これでバルトは、 妻の元へ連れて帰れる程度の姿に戻した。 ただし…… 完全に元には戻らぬ。 時折、霧が体から漏れ、 夜に悪夢を見るだろう。 それでも……構わないな?」



影の主はゆっくりと立ち上がり、 長い腕でバルトの鎖を完全に解いた。



「連れて行け、ヨハク。 私の谷から出るまで…… 私が道を開いてやろう。 だが、忘れるな。 お前はもう『戻りたいという想い』を失った。 この世界が、お前の新しい故郷だ。」



バルトはよろよろと立ち上がり、 まだ弱々しい足取りでヨハクの方へ近づいてきた。 白く濁っていた目は、今はかすかに涙を浮かべている。



「……本当に…帰れるのか……?」



影の主は玉座の上で静かにヨハクを見下ろし

最後の言葉を投げかけた。



「……どうだ? 今すぐ連れて帰るか? それとも……もう少しここで奴の様子を確認してから出るか?」



霧がゆっくりと道を開き始めている。


ヨハクは影の主を見て答える。


「私はできれば、影の主よ、あなたと少し話がしたい。 というより、あなたが知りたい。 バルトは生きており、時折悪夢を見る、だが帰れるのなら十分でしょう。 しかしあなたのような方と相見える機会などありましょうや。 もし良ければ、あなたがどんなお方かお教え頂きたい」



影の主はヨハクの言葉を聞くと、長い沈黙を落とした。


黒い玉座の上で、角のようなシルエットがゆっくりと傾き、 霧が激しく、しかし静かに渦を巻く。


やがて、低く、深く、どこか楽しげな笑い声が響いた。



「……ふふ……ふふふっ…… なんと大胆な…… 私の谷で、私の前で『あなたが知りたい』とは…… お前は本当に、恐れを知らぬのか、それとも…… ただの無謀者か。」



影の主はゆっくりと立ち上がり、長い腕を広げた。 その姿はますますはっきりし、 黒い霧に包まれた長身のシルエットが、玉座の間を圧倒的に満たす。



「……よかろう。 お前のその純粋な好奇心…… 少しだけ、気に入った。 バルトはそこで待っていろ。 少しの間だけ、話を許そう。」



影の主はバルトの方へ軽く手を振ると、鎖が再び緩やかに締まり、 バルトは大人しく玉座の横に座り込んだ。 白く濁っていた目が、静かにヨハクと影の主を交互に見つめている。


影の主はヨハクに向き直り、低い声で語り始めた。

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