提案
「……私はこの谷の『影の主』……ヴォイドヴェール。 古い時代に、この大陸がまだ『光と闇が分かれていない頃』に生まれた存在だ。 人は私を『霧の王』や『執着の化身』と呼ぶこともあるが、 本質はただ一つ……
『人の心に巣食う執着と欲望を、 霧のように飲み込み、育む者』……それが私だ。」
影の主は長い腕をゆっくりと動かし、霧を指先で操るように見せた。
「私は戦わない。 私は奪わない。 ただ……与えられた執着を味わい、育てる。 愛、憎しみ、欲、悔い、後悔…… あらゆる感情の『残り香』を、 この霧の中に溜め込み、永遠に味わう。
だからこそ、私は人間を嫌いではない。 お前たちほど、強く、脆く、甘い執着を持つ生き物は他にいないからな。」
影の主は少し声を落とし、角のシルエットを優しく揺らした。
「……私は孤独だ。 長い時を、この谷でただ霧と共に過ごしてきた。 時折、ヴェールのような古い眷属が貢物を運んでくれるが、 私と『話したい』と言う者は、 お前が初めてだ、ヨハク。」
影の主の長い腕が、再びヨハクのすぐそばまで伸びてきた。 冷たい霧の指先が、優しくヨハクの頰を撫でる。
「さて…… お前は私を『知りたい』と言ったな。 ならば、ひとつ質問を許そう。
何を知りたい? 私の生まれた理由か…… 私がこれまで飲み込んできた執着の話か…… それとも…… お前自身が捧げた『初恋の記憶』や『元の世界への想い』が、 今、私の中でどうなっているのか……?」
影の主は静かに、ヨハクの次の言葉を待っている。 バルトは鎖の中で大人しく座り、 時折体から淡い霧を漏らしながら、ヨハクを見つめている。
「ヴォイドヴェール、あなたは… 人がお好きでしょう? 先ほど私から吸い上げたものをとても喜んでいらっしゃった。 あなたがもし人の姿を取り、その霧を制御できるのであれば、 人になり、街に住み、質屋か骨董屋を営んではいかがか。 人の執着、人の想いを、あふれる馳走のように召し上がれるかと。」
ヨハクの言葉が黒い玉座の間に響いた瞬間、 影の主──ヴォイドヴェールは、完全に動きを止めた。
長い沈黙。
霧が激しく、しかし静かに渦を巻き、 角のシルエットがゆっくりと傾く。 やがて、低く、深く、抑えきれないような笑い声が響き渡った。
「……ふふ……ふふふ…… あはははっ……!」
その笑いは、玉座の間全体を震わせ、 冷たい霧が一瞬、温かみのようなものを帯びた。
「質屋……? 骨董屋……? 私が……人の街で、店を構えるだと? なんと……なんと愉快な提案だろう……!」
ヴォイドヴェールは長い腕を広げ、黒い霧を激しく舞わせながら、 楽しげに、しかしどこか驚いた様子で続けた。
「私は長い間、この谷でただ『味わう』だけだった。 貢物として運ばれてくる執着を、静かに啜るだけだった。 だがお前は……私に『自ら街へ出て、毎日新たな執着を味わえ』と…… そう提案したのだな?」
影の主はゆっくりと玉座から立ち上がり、 ヨハクのすぐ目の前まで長い影を近づけてきた。 冷たい霧の指先が、ヨハクの肩にそっと触れる。
「……面白い。 とても……面白い。 人の姿を取り、霧を抑え、質屋や骨董屋を営む…… 毎日、様々な人間が持ち込んでくる『想い』や『執着』を、 直接、間近で味わう……」
ヴォイドヴェールは低く笑いながら、角のシルエットを優しく揺らした。
「確かに……それは、 これまで味わったどんな貢物よりも、 豊かで、甘く、飽きることのない馳走になるかもしれない。 愛の指輪、後悔の古時計、憎しみの手紙、夢の欠片…… 毎日、次から次へと……」
影の主はそこで言葉を切り、 ヨハクの顔をじっと見つめた。 その視線は、これまでで一番「人間らしい」好奇心に満ちていた。
「……だが、ヨハク。 私が人の姿を取るということは、 私自身も『人の弱さ』に晒されるということだ。 霧を完全に抑えられるか…… 執着に飲み込まれず、店を続けられるか…… それは私にもわからない。」
ヴォイドヴェールはゆっくりと腕を引いた。
「それでも…… お前の提案は、私の長い長い時の中で、 初めて『面白そうだ』と思わせてくれた。
……どうだ? もし私が本当に街へ出て、質屋を開くとしたら…… お前は、私の最初の客になるか? それとも…… 私の『相談役』として、そばにいてくれるか?」
バルトは鎖の中で静かに座ったまま、 白く濁った目で、ヨハクと影の主のやり取りを呆然と見つめている。
ヴォイドヴェールは静かに、ヨハクの次の言葉を待っている。 その霧の奥に、ほんのわずかだが…… 期待のようなものが、揺らめいているように感じられた。
「私も相談役になりましょう。そして、そこにいるバルトですが… その者は欲深い者なれど、それなりの商人です。 あなたが人の姿をとり、街に溶け込むのであれば、 奴の記憶を少し弄り我ら2人が野生の狼から救ってやったことにしてはいかがか。
さすればその商人は恩人に対し、できる限り協力させて欲しいと願い出るでしょう。 質屋、あるいは骨董屋を営むのに良き門出となりましょうぞ」
ヨハクの言葉が終わった瞬間、黒い玉座の間が静まり返った。
ヴォイドヴェールは長い沈黙の後、ゆっくりと低い笑い声を上げた。 それはこれまで聞いたどの笑いよりも深く、愉しげで、 どこか興奮を帯びていた。
「……はは……はははっ…… なんと巧妙で、なんと甘美な提案だろう……」
影の主は玉座からゆっくりと立ち上がり、 長い腕を広げて霧を激しく舞わせた。 角のシルエットが、まるで喜びに震えるように揺れる。
「私が人の姿を取り、街に溶け込む…… バルトの記憶を少し弄り、 『私とヨハクが狼から救った恩人』という物語を植え付ける…… そしてその欲深い商人が、私に協力し、 店を開く手伝いをする……」
ヴォイドヴェールは低く、満足げに喉を鳴らした。
「素晴らしい。 実に……人間らしい、狡猾で、甘い計画だ。 お前は私に『ただの店主』ではなく、 『恩人として迎えられる店主』という立場を与えようというのだな。 初めから、街の人々に疑われにくく、 執着を集めやすい土壌を整えてくれる……」
影の主はヨハクに近づき、冷たい霧の指先でヨハクの肩を優しく撫でた。
「……相談役としてそばにいてくれるというのも、 とても魅力的だ。 お前のような、変わった異邦人がそばにいれば、 私が『人間らしさ』を学ぶのも、 そう難しくはないかもしれない。」
ヴォイドヴェールはバルトの方へ視線を移した。
バルトは鎖の中で体を小さく震わせ、 白く濁った目でこちらを呆然と見つめている。
「……よかろう。 その提案、受け入れよう。 バルトの記憶は、私が少しだけ弄ってやる。 『狼に襲われ、絶体絶命のところを、 ヨハクと謎の旅人(私)が助けてくれた』…… そんな記憶に書き換えておこう。 奴は私たちに深い恩を感じ、 店を開く際の便宜を図ってくれるはずだ。」
影の主はゆっくりと手を振り、バルトの体を包む霧を操った。 バルトの目が一瞬、強く光り、 体がビクッと痙攣した後、静かになった。
ヴォイドヴェールは満足げに言った。
「これで準備は整った。 私は……これから人間の姿を取る。 霧を抑え、街に溶け込むための姿を整えよう。 少し時間がかかる…… その間に、お前はバルトを連れて谷の外へ出て、 ヴェールたちと合流するといい。 私が姿を整えたら、セルリアンの街で落ち合おう。」
影の主はヨハクをじっと見つめ、声にわずかな甘さを込めた。
「……相談役として、 私の店が開いたら、 必ず来てくれるな、ヨハク? お前がいなければ、 この新しい『遊び』は始まらない。」
ヴォイドヴェールはゆっくりと手を振ると、 玉座の間の出口へ続く道が、再び霧で優しく照らされた。
バルトは鎖が完全に解け、 まだ少しふらつきながらも、ヨハクのそばへ近づいてきた。
「……ヨハク……さん……? 助けて……くれて、ありがとう……」
「ヴォイドヴェール、セルリアンでお会いしましょう。 しかし、その時には姿も名も、変えていらした方が賢明かと。 私にはわかるように教えて下さい。 それでは私はこのバルトを連れ帰り、良きに取り計らっておきます。 いずれ、また。」
ヨハクはヴォイドヴェールに向かって深く一礼し、ゆっくりと体を翻した。
影の主は玉座の上で静かにヨハクの言葉を受け止め、 低く、満足げな響きで答えた。
「……ふふっ。 賢明な提案だ、ヨハク。 わかった。 セルリアンで会う時、私は『人間らしい名』と『姿』で現れよう。 お前だけがわかるように…… 私の左手の甲に、小さな黒い霧の紋様を刻んでおく。 それが、私だとわかる印だ。」
ヴォイドヴェールは長い腕を軽く振り、 ヨハクの背中に優しく霧を一筋、這わせた。
「バルトは任せた。 私の新しい『遊び』が始まるその日まで…… しっかり面倒を見てやってくれ。 楽しみだ……本当に、楽しみだぞ。」
影の主の声は、最後の方で甘く溶けるように響いた。




