セルリアンへ
ヨハクはバルトの腕を支え、よろめく彼の体をしっかり抱きかかえながら、 黒い玉座の間を後にした。 ヴォイドヴェールは玉座に座ったまま、 ヨハクの背中を静かに見送っている気配がした。
道は霧に優しく照らされ、 先ほどより歩きやすい。
バルトはヨハクの肩に体重を預けながら
掠れた声で何度も繰り返した。
「……ありがとう……本当に……ありがとう……
俺は……生きて……妻に……会えるんだな……」
谷の出口が近づいてくる。
濃い霧が徐々に薄くなり、 木々の隙間から朝の柔らかな光が差し込んできた。
やがて、黒霧の谷の境界を越えると——
そこには、五匹の霧狼が静かに待っていた。
リーダーのヴェールが、赤い目を優しく細めてヨハクを迎えた。
「……無事か、ヨハク。 影の主と……話せたようだな。」
ヴェールはバルトの変わり果てた姿を一瞥し、 低く喉を鳴らした。
「その男を……連れて帰るのか? 馬は…ここにいる。
セルリアンに帰るなら、街道まで先導してやろう。」
バルトはヨハクの肩に寄りかかったまま、 弱々しく周囲を見回している。
陽の光が森に差し込み、 霧狼たちの黒い毛並みが、淡く輝いていた。
ヨハクはバルトを優しく支えながら、馬のそばまで連れて行き、鞍にゆっくりと乗せた。 バルトの体はまだ弱々しく、灰色の肌から時折淡い霧が漏れている。
「あなたは助かったのです、少し、待っていて下さい」
バルトは白く濁った目でヨハクを見つめ、掠れた声で小さく頷いた。
「……ああ……わかった…… 待ってる……」
ヨハクはバルトを馬に残し、少し離れたところでヴェールたちのもとへ戻った。
五匹の霧狼は静かに座ったまま、ヨハクが戻ってくるのを待っていた。リーダーのヴェールが、赤い目を優しく細めてヨハクを迎える。
ヨハクは彼らに向かって、これまでの顛末を静かに、しかし丁寧に話した。
「……というわけで、影の主はセルリアンに住むことになった。 お前たちも無闇に行商人を襲わなくてもよい、 貢物がなくとも影の主は自ら楽しみに行くそうだ。
性根の悪い悪辣な奴から奪っておいて、 たまに献上しに来れば主の機嫌も良いだろう。 あまり目立つような事をして討伐依頼が出るようなことにならんようにな」
ヴェールはヨハクの話を聞き終えると、ゆっくりと頭を傾げ、低く喉を鳴らした。 他の四匹の狼も、耳をピクピクと動かしながら静かに耳を傾けている。
「……ふむ。 影の主が……自ら街へ出る、か。 これは……本当に久しぶりのことだ。」
ヴェールは赤い目を細め、どこか感慨深げに続けた。
「私たちは長年、貢物を運ぶことで影の主の機嫌を取ってきた。 だが……お前が提案したように、 『性根の悪い者から奪う』程度に留め、 無闇に襲わなければ…… 人間たちも大きく騒ぎ立てることはないだろうな。」
彼は前足を軽く踏み鳴らし、声に少しの笑いを込めた。
「わかった。 お前の忠告、しっかり胸に刻んでおこう、ヨハク。 影の主が街で『遊び』を始めるなら、 私たちも少しだけ…… 森のルールを緩めてもいいかもしれない。」
ヴェールはヨハクをまっすぐ見つめ、赤い目に温かみのようなものを浮かべた。
「……お前は本当に、変わった人間だ。 私たちと話をし、 影の主に新しい道を示し、 そしてあの欲深い商人を連れて帰る…… まるで、この森全体のバランスを変えてしまったようだ。」
他の狼たちも、低く同意するように喉を鳴らした。
ヴェールは少し声を落として言った。
「セルリアンへ帰る道は、 私たちが少しの間、先導してやろう。 バルトの体はまだ弱い…… 街道まで無事に送り届けてやる。いや、届けさせてくれ ……かまわぬか?」
昼の光が木々の間から差し込み、 霧狼たちの黒い毛並みが、柔らかく輝いている。 馬の上で待つバルトは、遠くからこちらをぼんやりと見つめていた。
「ああ、頼むよ、ヴェール。 それに他の4……匹と呼んでいいのか? まぁ、頼む。」
ヴェールは赤い目を細め、低く喉を鳴らして笑うような響きを返した。
「……ふふっ。 『匹』で構わんよ、ヨハク。 私たちは人間の言葉で数えられることを、 それほど嫌ってはいない。」
彼はゆっくりと立ち上がり、他の四匹の狼たちに視線を向けた。 四匹も一斉に耳を立て、軽く尾を揺らして応じる。
「では、行こう。 街道まで、私たちが先導する。 バルトの馬が疲れぬよう、ゆっくりとしたペースでな。」
ヴェールはヨハクとバルトの馬の横に並び、 他の四匹は周囲をゆるやかに囲むように動き始めた。 黒い毛並みが木漏れ日の中で淡く輝き、 霧の残り香が優しく漂う。
バルトは鞍の上で体を少し起こし、 まだ弱々しい声でヨハクに言った。
「……ヨハクさん…… 本当に……ありがとう…… 俺は……俺は……本当に……帰れるんだな……」
一行は静かに森を進み始めた。 ヴェールが先頭を歩き、時折鼻を動かして周囲の気配を確かめながら、 ヨハクとバルトを守るように進んでいく。
木々がまばらになり、黒い森の曲がり角を過ぎると、 やがて見慣れた街道が姿を現した。
ヴェールはそこで足を止め、赤い目でヨハクを振り返った。
「……ここまでだ。 街道に出れば、もう狼の群れもめったに出ない。 セルリアンまでは半日ほどだろう。 バルトの体はまだ弱いから、 無理をさせぬようにな。」
彼は少し間を置いて、声を低くした。
「影の主が街に現れたら…… 私たちも時折、森の端まで様子を見に行くかもしれない。 その時は……また会おう、ヨハク。」
ヴェールは軽く頭を下げ、他の四匹の狼たちも同じように首を垂れた。 風が彼らの黒い毛を優しく撫でている。
バルトは馬の上で小さく息を吐き、 ヨハクに視線を向けたまま、静かに待っている。
「ああ、たまに会おうな」
ヴェールは赤い目を優しく細め、低く喉を鳴らした。
「……ああ。 また会おう、ヨハク。 影の主の新しい『遊び』…… 私たちも少しだけ、楽しみにしている。」
他の四匹の狼たちも、静かに頭を下げ、 黒い毛並みを陽の光に輝かせながら、森の奥へと姿を消していった。 最後にヴェールの赤い目が一瞬だけこちらを振り返り、 木々の間に溶けるように消えた。
ヨハクは彼らを見送った後、ゆっくりと馬のそばに戻り、バルトに向き直った。
「さて、」
バルトは鞍の上で体を少し起こし、白く濁った目でヨハクを見つめている。
ヨハクは静かに、しかしはっきりと言った。
「もう危険は去りました。 あなたは野生の狼に襲われてた所を、私と連れが間一髪の所でお助けしたんですよ。 荷物などは失われてしまいましたが……まぁ、命あっての物種です。 まずは生きて帰れる事を喜びましょう」
バルトはヨハクの言葉を聞くと、ゆっくりと目を瞬いた。 霧に染まった記憶が、少しずつ馴染んでいくように、 彼の表情がわずかに変わった。
「……ああ……そうだったな…… 狼に……囲まれて…… もうダメかと思ったところで…… あなたと……もう一人の方が……」
彼は自分の灰色がかった手をじっと見つめ、 掠れた声で続けた。
「……荷物は……全部失くしたか…… でも、いい…… 命が……あるだけで……十分だ…… 妻に……会える…… それだけで……」
バルトは弱々しく微笑もうとして、 体から淡い黒い霧を少しだけ漏らした。 まだ完全に人間らしい表情には戻っていないが、 目には確かに「生きている」という実感が宿り始めている。
彼はヨハクに視線を向け、震える声で言った。
「……本当に……ありがとう、ヨハクさん。 あなた達が……いなければ…… 俺は……ここで……終わっていた…… セルリアンに着いたら…… 必ず……お礼を……させてくれ…… 妻にも……ちゃんと……伝えるから……」
馬は街道の上で静かに息を整え、 太陽が石畳の道を優しく照らしている。 セルリアンまでは、まだ半日ほどの道のりだ。
バルトは鞍の上で体を支えながら、ヨハクの次の言葉を待っている。
バルトは鞍の上で体を少し前屈みにし、時折体から淡い黒い霧を漏らしながらも、 必死に耐えている様子だった。 灰色がかった肌はまだ完全に元に戻っていないが、 白く濁っていた目は少しずつ人間らしい光を取り戻しつつある。
ヨハクが心配そうに声をかけると、バルトは弱々しく微笑もうとして言った。
「……大丈夫……だよ、ヨハクさん…… 少し……体が重いけど…… 妻の顔を……思い浮かべると…… 頑張れる……」
道中、彼は時折うとうとと意識を失いかけ、 ヨハクが声をかけるとハッと目を覚ます……そんな繰り返しだった。 しかし、ヴェールたちが言っていた通り、狼の気配は一切なく、 街道は穏やかに続いている。
半日という時間は、ゆっくりとしたペースで進んでも、 日が傾き始める頃にはセルリアンの城壁が見えてきた。
城門が近づいてきた頃、バルトは鞍の上で体を起こし、 遠くに見える街並みをぼんやりと見つめながら呟いた。
「……帰ってきた…… 俺……本当に帰ってこれたんだ……」
彼の声はまだ掠れているが、そこに安堵と、 これから妻と再会する喜びが混ざっていた。
街の門をくぐる頃には、空はオレンジ色に染まり始め、 市場の喧騒と、夕飯の準備をする人々の声が聞こえてくる。 ギルドの看板も、遠くに見えている。
バルトはヨハクに視線を向け、弱々しく、しかし真剣に言った。
「……ヨハクさん…… まずは……妻のところへ…… 連れて行ってくれ…… 家は……市場広場の近くの…… 『バルド商会』って看板が出てる……俺の……妻は……リリア……じゃなくて…… 待って……名前は……エレナ……だ……」
彼は自分の記憶を確かめるように眉を寄せ、 少し混乱した様子でヨハクを見た。
「まぁ、もうすぐです。先にギルドに無事を報告しますので少しだけお待ち下さい。」
バルトは鞍の上で小さく頷き、掠れた声で答えた。
「……ああ……わかった…… 待ってる…… 急がなくていいよ……」
ヨハクはバルトの馬をギルドの近くの柱に軽く繋ぎ、 彼が倒れないよう鞍の上で体を安定させてから、 冒険者ギルドの扉を静かに押し開けた。




