帰還
夕暮れのギルドは、昼間より少し落ち着いた雰囲気だった。 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、 数人の冒険者が酒を飲みながら依頼の話をしている。
カウンターでは、リリアが書類を整理していた。 彼女はヨハクが入ってきたのを見て、目を丸くし、すぐに立ち上がった。
「あ……ヨハクさん!?」
リリアの声が少し大きくなり、周囲の視線が一瞬集まる。 彼女はカウンターから急いで出てきて、ヨハクの顔をまじまじと見つめた。
「無事……だったんですね……! 行方不明の商人捜索依頼…… もう1日以上経っていたので、心配していました……」
リリアの瞳には、純粋な安堵と、少しの喜びが浮かんでいる。 彼女はヨハクの革鎧に付いた泥や、疲れた様子を素早く見て取り、 声を少し低くした。
「バルトさんは……どうでしたか? 生きて……いらっしゃるんですか? それとも……遺品だけ……?」
リリアはカウンターの奥から、依頼の記録帳を急いで取り出しながら、 ヨハクに視線を注いでいる。
ギルドの暖かい灯りが、ヨハクの体を優しく包んでいる。 外では、バルトが馬の上で静かに待っているはずだ。
「バルトは狼に襲われて危なかった所を助ける事ができた、今外にいる。」
リリアはヨハクの言葉を聞いた瞬間、ほっとしたように胸に手を当てた。
「……生きていて、本当によかったです…… ヨハクさん、ありがとうございます。 バルトさんが無事で……本当に安心しました。」
「一つ、教えて欲しいのだが、依頼主の妻というのはどんな人物だ?」
リリアは少し視線を落とし、記録帳の端を指でなぞりながら続けた。
「依頼主の妻……エレナさんですね。 年は三十代半ばくらいで、 とても優しくて、しっかりした女性です。 バルド商会を夫婦で切り盛りしていて、 バルトさんが旅に出ている間も、 一人で店をちゃんと回していました。」
彼女は少し声を落として、付け加えた。
「ただ……少し心配なのは、 エレナさんは夫のことをとても深く愛していて、 今回の行方不明でずいぶん落ち込んでいたんです。 『絶対に生きて帰ってくる』と信じていたけれど、 毎日教会でお祈りする姿を、何度も見かけました……」
リリアはヨハクをまっすぐ見て、穏やかに言った。
「バルトさんが亡くなってたら、どうなってたことか…
でも、エレナさんは強い人です。 バルトさんが生きて帰ってきただけで、 きっと受け入れてくれるはず…… ただ、急に全てを話すより、 少しずつ状況を説明してあげた方がいいかもしれません。」
彼女はカウンターの引き出しから、小さな鍵の束を取り出しながら言った。
「バルトさんの家は、市場広場の南側にある『バルド商会』です。 今から行かれますか? それとも、まずはギルドで報酬の清算を済ませてから……? 依頼の報酬は銀貨30枚ですが、 バルトさんが生きて帰ってきたので、 追加でお礼が出るかもしれません。」
リリアの瞳には、ヨハクへの信頼と、 これから起こる再会への少しの不安が混ざっている。
外では、バルトが馬の上で静かに待っている。
「バルト商会にそのままお連れしてもいいんだが、3日以上飲まず食わずでかなり消耗し、混乱もしているようだ。すぐに会わせて平気かね?治療院などに行った方が良いかな?どうだろう?」
リリアはヨハクの言葉を聞いて、軽く息を飲み、すぐに考え込むような表情になった。 彼女はカウンターに両手をつき、声を少し低くして答えた。
「……そうですね……飲まず食わずで、しかも狼に襲われた後だもの…… バルトさんの体はかなり弱っているはずです。 すぐに妻のエレナさんに会わせるのは……正直、ちょっと心配です。」
リリアは記録帳を閉じながら、穏やかだけどはっきりと言った。
「エレナさんは優しい方ですが、 バルトさんがあまりにも弱ってたらきっと取り乱してしまうと思います。 特に今は夜も近い時間ですし、 突然の再会でエレナさんの心臓に悪いかもしれません。」
彼女は少し迷った後、提案するように続けた。
「私の考えでは…… まずは街の東側にある『白の癒し堂(治療院)』に連れて行った方がいいと思います。 そこは教会の付属施設で、治療に慣れたシスターたちがいます。
軽い栄養補給と、精神の安定の祈りもかけてもらえますよ。 一晩ゆっくり休ませて、 明日の朝になってから、バルトさんの容態が落ち着いてから、 エレナさんのところへ連れて行く……というのが、一番優しいと思います。」
リリアはヨハクをまっすぐ見て、柔らかく微笑んだ。
「ヨハクさんなら、バルトさんをちゃんと支えて連れて行けそうですけど…… もしよければ、私も一緒に治療院まで付き添いましょうか? シスターたちに事情を説明するの手伝いますよ。」
外では、バルトが馬の上で静かに待っている。 夕暮れの光がギルドの窓から差し込み、 リリアの青い制服を淡く染めている。
「では先に白の癒し堂に連れて行こう。 その後、エレナさんに報告しに行くよ。」
リリアはほっとしたように微笑み、すぐにカウンターから出てきた。
「わかりました。 私も一緒に行きましょう。 シスターたちに事情を説明するの手伝いますね。」
ヨハクはギルドの外へ出ると、バルトの馬のそばへ戻った。 バルトは鞍の上で体を少し前屈みにし、 夕暮れの冷たい風に震えながらも、ヨハクの顔を見て弱々しく微笑んだ。
「……ヨハクさん…… ギルドは……終わったのか……?」
ヨハクは彼の肩を優しく支えながら、穏やかな声で言った。
「少し寄り道するよ。 まずは治療院で体を休めよう。 奥さんに会う前に、少し元気になっておいた方がいい。」
バルトは小さく頷き、掠れた声で答えた。
「……ああ……そうか…… ありがとう……」
リリアが先導し、ヨハクはバルトの馬の手綱を引いて歩き始める。 夕暮れのセルリアンは、橙色の灯りが家々の窓から漏れ、 市場の喧騒が少しずつ静まっていく時間だった。
白の癒し堂は街の東側、教会のすぐ隣にあった。 白い石造りの建物で、入口には柔らかなランプの光が灯り、 薬草と清浄な魔法の香りが漂っている。
リリアが先に中へ入り、シスターに事情を簡単に説明した。 年配のシスターはバルトの姿を見て少し驚いたものの、 すぐに温かい表情で迎え入れてくれた。
「まあ……大変だったのね。 すぐにベッドを用意します。 軽い治癒と栄養と、鎮静の祈りをかけましょう。」
バルトは治療院の柔らかいベッドに横たえられ、 シスターたちが治療を始めた。彼の灰色がかった肌が少しずつ血色を取り戻し、 体から漏れる黒い霧も、祈りの力で抑えられていく。
ヨハクとリリアはベッドの横で静かに見守った。
年配のシスターがバルトの額に手を当てながら、優しく言った。
「今夜はここでゆっくり休みなさい。 明日の朝には、かなり楽になっているはずよ。」
バルトは目を閉じながらも、 ヨハクに向かって弱々しく手を伸ばした。
「……ヨハクさん…… エレナに…… 俺が……生きてるって…… ちゃんと……伝えて……くれ……」
「ええ、伝えておきます。」
リリアがそっとヨハクの袖を引いて、小声で言った。
「バルトさんは今夜ここで大丈夫そうです。 エレナさんのところへは…… 今から二人で行きますか? それとも、明日の朝に一緒に?」
治療院の窓から、夜のセルリアンの灯りが優しく差し込んでいる。
ヨハクは声を低くして、シスターに尋ねた。
「バルトさんの……この黒い霧のようなものは、ただの疲労や衰弱だけではないようです。 詳しく教えていただけますか? 呪いのようなものですか?」
シスターはバルトの額に手を当てたまま、穏やかだが真剣な表情でヨハクを見上げた。
「……ええ、ただの疲労や衰弱ではありませんね。 これは……『影の霧の浸食』と呼ぶべきものです。」
シスターは声をさらに低くし、リリアも一緒に耳を傾けるように身を寄せた。
「狼に襲われた時に深く吸い込んだ、 古い影の力……それが彼の体と心に染みついています。 皮膚が灰色がかり、時折黒い霧が漏れるのはそのせいです。 幸い、命に別状はありませんが……」
彼女は少し間を置いて、静かに続けた。
「今後、気をつけなければならないことは三つです。
一つ。 夜になると悪夢を見やすくなります。 恐ろしい気配や、狼に追いかけられる夢…… 時には、自分が霧に溶けていくような恐ろしい夢も。 それが続くと、心が疲弊してしまいます。
二つ。 時折、感情が高ぶると体から霧が強く漏れ、 周囲の人間を少し不安にさせることがあります。 特に、恐怖や強い欲求を感じた時ですね。
三つ。 完全に元に戻ることは……難しいでしょう。 祈りで抑えることはできますが、 一生、影の霧の『痕跡』は残ります。 ただ、毎日祈りを捧げ、穏やかな生活を送れば、 霧の影響はだんだん弱まっていきます。」
シスターはバルトの寝顔を優しく見つめながら、付け加えた。
「エレナさんに伝える時は…… 『命は助かったけれど、体に影の影響が少し残っている』と、 優しく、ゆっくり伝えてあげてください。 突然全部を話すと、彼女の心が折れてしまうかもしれません。」
リリアがそっとヨハクの腕に触れ、小声で言った。
「ヨハクさん…… 今夜はバルトさんをここに預けて、 明日朝にエレナさんのところへ一緒に行きませんか? 今から行くと、エレナさんは夜遅くに夫の変わり果てた姿を見て、 取り乱してしまうかもしれません……」
ベッドの上では、バルトが浅い寝息を立てながら、 時折体から淡い黒い霧を小さく漏らしている。
「バルトさんは今夜、ここに預けましょう。 体が落ち着くまで、シスターたちにお願いします。 私はエレナさんに、まずは『夫が生きて帰ってきた』という話だけをしてきます。」
シスターは優しく頷き、バルトの額に新しい祈りの光を当てながら言った。
「ええ、安心してお任せください。 今夜はしっかり休ませて、明日の朝には顔色もずいぶん良くなっているはずです。」
シスター達に軽く礼を言い、治療院を後にした。




