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取引


影の輪郭が、少しずつはっきりし始める。 背が高く、細長いシルエット。 頭部には、角のようなものが二本、ぼんやりと浮かんでいる。


霧がヨハクの周囲をゆっくりと回り、 まるで心の中を覗き込むように、冷たい感触が胸の奥を撫でる。


ヨハクは両手に貢物(絹の切れ端と銀貨、真鍮の指輪)を捧げるように持ち、 霧の奥に浮かぶ影に向かって、はっきりとした声で言った。



「影の主よ、ヨハクと申す。 バルトという商人の妻からの依頼で捜索に来た。 あなたの事は何とお呼びすれば良いか」



一瞬、谷全体が息を潜めたかのように静まり返った。


黒い霧がゆっくりと渦を巻き、 石のアーチの向こうに浮かぶ長い影が、 ヨハクの言葉を味わうようにわずかに傾いた。


やがて、低く、深く、頭の奥に直接響くような声が返ってきた。 その声は男とも女ともつかず、老いとも若さともつかない、不思議な響きを持っている。



「……ヨハク、か。 勇敢な名だ……あるいは、愚かな名か……」



影の輪郭が少しだけはっきりし、 二本の角のようなシルエットが、霧の中でゆっくりと揺れた。 長く伸びた腕のようなものが、貢物の方へするすると近づいてくる。




「……私の名を、知りたがるか。 面白い……久しぶりに名を尋ねられた。 私はこの谷の『影の主』…… 古い者たちは私を『ヴォイドヴェール』と呼んだ。 だが、そんな古い名前などどうでもいい。 お前は……ただ『影の主』と呼べば十分だ。」



影の主は貢物をじっくりと眺めるように、霧をゆっくりと這わせた。 絹の切れ端と銀貨、そして真鍮の指輪に、淡い黒い霧が触れる。



「……貢物は、悪くない。 特にこの指輪……妻への想いが、強く染みついている。 ふふ……人間の執着は、甘い香りがするな。」



影の主の声が、少しだけ楽しげに変わった。


「で……ヨハク。 バルトという欲深い商人の、妻からの依頼か。 奴を探しに来たというわけだ。 ……生きているかどうか、それとも遺品か、 どちらを望む?」


長い腕のような影が、ゆっくりとヨハクの方へ伸び、 まるで心の中を覗き込むように、冷たい霧が胸のあたりを撫でる。



「正直に答えよ。 私は嘘が嫌いだ。 生きている奴を連れ帰りたいか…… それとも、遺品だけで十分か……?」



影の主は静かに、ヨハクの次の言葉を待っている。 霧が濃くなり、視界がさらに狭まる中、 その存在感だけが、圧倒的にそこにあった。



「影の主よ、生きているのであれば、連れて帰りたい。 死んでいるのであれば、その証を持ち帰りたい。 お願いできないだろうか?」



ヨハクの言葉が霧の中に溶け込むと、影の主はゆっくりと長い腕を引いた。 黒い霧が渦を巻き、角のようなシルエットがわずかに揺れる。



「……ふむ。 素直で、欲張りすぎない…… なかなか良い答えだ、ヨハク。」



声は低く、どこか楽しげに響いた。 しかし、次の瞬間、影の主の気配が急に重くなった。



「だが…… 私の谷に足を踏み入れた者に、 ただで何かを与えるほど、私は親切ではない。」



影の主の長い腕が、再びゆっくりと伸びてくる。 今度は貢物ではなく、ヨハクの胸のあたりを、霧の指先で軽く撫でるように。



「……取引をしよう。 私はバルトの生死と居場所を教えてやろう。 生きていれば、連れて帰る道も……少しだけ、開いてやろう。 その代わり……」



影の主の声が、頭の中に直接響くように低くなった。



「お前から、一つだけ…… 『大切な記憶』の一欠片を頂く。 痛みはない。 ただ、その記憶は二度と戻らない。 例えば…… 初めて誰かを好きになった日のこと、 家族との最後の会話、 あるいは……お前がこの世界に来た瞬間の記憶…… どれでもいい。 私に一つ、捧げよ。」



霧がヨハクの体を優しく、しかし確実に包み込む。 影の主の角のようなシルエットが、わずかに近づいた気がした。



「……どうする、ヨハク? 取引を受けるか? それとも…… 何も捧げずに、引き返すか? 私は待っている。」



冷たい霧が頰を撫で、 影の主の視線が、ヨハクの心の奥を静かに覗き込んでいる。



「あなたは人の執着を好まれると聞いた。 ならば、我が初恋の記憶ではいかがであろうか。」



影の主は一瞬、動きを止めた。


黒い霧が激しく渦を巻き、角のようなシルエットがゆっくりと前傾する。 長い腕がヨハクの胸のあたりに近づき、まるで心臓を優しく掴むような仕草をした。



「……ほう……」



低く、愉悦に満ちた声が頭の中に直接響いた。



「初恋の記憶…… 甘く、切なく、熱い執着…… とても良い香りがする。 人間らしい、純粋で、脆い記憶だ……」



影の主は満足げに笑うような響きを漏らし、霧の指先がヨハクの額にそっと触れた。



「よかろう。 その取引、受け入れよう。」



次の瞬間、ヨハクの頭の中に柔らかい温かさが広がった。 遠い日の記憶──初めて誰かを好きになったあの日の、胸の鼓動、照れた笑顔、言葉にできなかった想い…… それらが、まるで霧に溶けるように、少しずつ薄れていく。


痛みはない。 ただ、どこか大切な色が、心の奥から静かに抜け落ちていくような感覚だけがあった。


影の主は腕をゆっくりと引き、満足そうに言った。



「……美味しかった。 甘酸っぱい、若い執着…… 久しぶりに良いものを頂いた。」



霧が少しだけ薄くなり、影の主のシルエットがややはっきりする。 角の先が淡く光り、声が続いた。



「約束通り、教えてやろう。 奴は……まだ生きている。 私の谷のさらに奥、『黒い玉座の間』に囚われている。 しかし……もう人間の姿ではない。 私の霧を深く吸い込みすぎて、 欲と恐怖に塗れた『影人形』と化している。」


影の主は低く笑った。


「連れ帰りたいと言うなら、 私の許可を得て連れて行ってもいい。 だが……その場合、もう一つの取引が必要になる。 お前は、その『変わり果てたバルト』を、 本当に妻の元へ連れて帰る覚悟があるか? 妻は……おそらく、夫のその姿を見て、 心を壊すことになるだろう。」


影の主の長い腕が、再びゆっくりとヨハクの方へ伸びてきた。


「……どうする、ヨハク? バルトを連れ帰るか? それとも、遺品だけを持って帰り、 『死んだ』ことにして妻を慰めるか? もう一つの取引をしてもいいが…… 今度はもっと『深いもの』を頂くことになるぞ。」


霧がヨハクの周囲をゆっくりと回り、 影の主は静かに、次の答えを待っている。



「ひとまず、バルトの姿を確認させて頂きたい」



影の主はヨハクの言葉を聞くと、低く愉しげな響きを漏らした。 黒い霧がゆっくりと渦を巻き、角のようなシルエットがわずかに傾く。



「……賢明な選択だ、ヨハク。 まずは目で確かめよ…… 言葉だけでは、信じがたいものもあるからな。」



影の主の長い腕が、まるで道を示すように前方へ伸びた。 すると、濃い霧が左右にゆっくりと分かれ始め、 石のアーチの奥に、細い黒い道が浮かび上がってきた。



「ついて来い。 私の玉座の間まで案内してやろう。 だが…… 勝手に触れたり、声をかけたりするのは許さない。 ただ、見るだけだ。」



影の主の姿が霧の中に溶け込み、 代わりに道沿いに淡い黒い光の粒が浮かんで、道しるべのように灯った。


ヨハクは貢物の残りを握りしめ、その淡い光を頼りに進み始めた。 霧は相変わらず濃いが、影の主の気配がすぐそばにあるためか、 先ほどよりは歩きやすくなっている。


数分ほど進むと、道は急に開け、 巨大な黒い石でできた『玉座の間』へと続いていた。


そこは円形の広間。 天井は見えず、壁は蔦と霧に覆われ、 中央に巨大な黒い玉座が一つ、ぼんやりと浮かんでいる。


玉座の前に、鎖で繋がれた人影があった。


……それが、バルトだった。

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