影の主
「影の主とはどんな奴だ?」
歩きながらヴェールに尋ねると、
黒狼の長はゆっくりと歩を進めながら、
低く喉を鳴らした。
霧の声が、木々の間を静かに響く。
「……影の主か。古い……とても
古い存在だ。私たち霧狼が生まれる
ずっと前から、この谷にいたと
言われている。
姿は……はっきりとはわからぬ。
いつも濃い黒い霧に包まれていて、
時折、人間のようなシルエットや、
巨大な獣の影が見えるだけだ。」
ヴェールは先頭を歩きながら、
赤い目を細めて続けた。
「性質は……気まぐれで、貪欲。
人間の『執着』や『欲望』が
染みついたものを好む。
金貨、宝石、綺麗な布、愛の言葉が
書かれた手紙……そういったものを
捧げると機嫌が良くなり、
時には質問に答えてくれることもある。
しかし、気に入らないものを
持っていったり、弱い態度を
見せたりすると……霧の中に
引きずり込まれ、二度と
出てこられなくなる。」
彼は少し声を低くした。
「バルドのような、欲深い商人は
特に危ない。影の主は『強い執着』を
持つ人間を、玩具のように
弄ぶのが好きらしい。
生きていれば……相当苦しめられて
いるはずだ。」
他の四匹の狼も、静かに耳を
傾けながら歩いている。
森は徐々に木々が密集し、
地面が湿り気を帯びてきた。
朝の光が葉を透かして差し込むが、
前方ではすでに黒っぽい霧が
立ち込め始めている。
ヴェールは鼻を軽く動かし、続けた。
「影の主に会う時は、貢物を
先に差し出すこと。そして、
はっきりとした目的を伝えることだ。
『バルドを探している』
『遺品を持ち帰りたい』……
曖昧な態度は命取りになる。
私たちは入り口までしか行けぬが……
もしお前が生きて戻ってきたら、
またここで会おう。」
ヴェールはそこで足を止め、
赤い目でヨハクを振り返った。
黒霧の谷の入り口が、目前に迫る。
木々は異様に絡み合い、地面は苔と
落ち葉で覆われ、濃い黒い霧が
ゆっくりと渦を巻いていた。
空気がひんやりと冷たく、重い。
ヴェールが静かに言った。
「……ここが境界だ、ヨハク。
どうする? 今からでも引き返すか?
それとも……貢物を用意して、
中へ入るか?」
五匹の狼は、ヨハクの決断を
静かに待っている。
「ああ、またな、ヴェール」
ヨハクは軽く手を上げ、
深く息を整えた。
冷たい朝の空気を肺いっぱいに吸い、
ゆっくりと吐き出す。
革鎧の留め具を確かめ、
腰袋の貢物を握りしめ……
黒い霧の谷へと足を踏み入れた。
一歩目で、世界が一変した。
霧は予想以上に濃く、冷たく、
まるで生き物のように体に
まとわりつく。
視界は数メートル先までしか利かず、
木々のシルエットが浮かんでは
溶けて消える。
足元は湿った苔と落ち葉で滑りやすく、
地面がわずかに沈むような、
不気味な感触がある。
後ろを振り返ると、
ヴェールたちの姿はすでに霧に飲まれ、
赤い目の光だけがかすかに残っていた。
それもすぐに闇に溶けていく。
周囲は静まり返り、
足音と息遣いだけがやけに大きく
聞こえる。
遠くで木が軋む音や、
何かが這うような微かな音がするが、
それが本物か幻か……判断がつかない。
やがて前方に、古い石造りの
アーチがぼんやりと浮かび上がった。
その奥はさらに深い闇。
中央には黒い霧が渦を巻きながら、
人の形をした影が一つ、
ゆらゆらと揺れている。
影はまだはっきりとは見えないが、
長く伸びた腕のようなものが、
ゆっくりとこちらへ伸びてくる。
冷たい声――いや、頭の中に
直接響くような感覚が、
霧の中から聞こえてきた。
「……誰だ……?
私の谷に、招かれざる者が……
貢物……持ってきたのか……?」




