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霧狼


「……ふむ…… 久しぶりに……人の言葉を……理解する者が現れたな……」



声は低く、擦れたものだったが、確かに人の言葉だった。

リーダーの狼の赤い目が、わずかに輝きを増す。



「あぁ…… いや……話せる者………だったか?」



他の四匹の狼も、ゆっくりと体を低く構えながら、

ヨハクを囲む円を少しだけ緩めた。

しかし、警戒は完全に解かれていない。



「人の言葉など………本当に…… 久しい………」


リーダーの狼はもう一歩近づき、 霧の声で静かに続けた。


「……お前は……ただの冒険者ではないようだ。

バルドという男を……探しに来たのか?」



霧がゆっくりと渦を巻き、 狼の周囲の空気がさらに重くなる。

五匹の赤い目が、今度は明らかに「知性」を帯びて

ヨハクの次の言葉を待っていた。



「驚いたな。会話ができるとは。」



盾を構えたまま、しかし剣の切っ先を少し下げ

敵意を露わにしないよう静かに言った。


リーダーの黒狼は、赤い目を細め、ゆっくりと喉を鳴らした。

霧の声が、再び低く響く。



「……ふっ……驚くのも無理はない。

私たちは……古の血を引く『霧狼』。

人の言葉を忘れたわけではない……

ただ、話す必要がなかっただけだ。」



狼は一歩だけ近づき、鼻を軽く動かしてヨハクの匂いを嗅いだ。 他の四匹も、囲む円を少し広げて警戒を緩めつつ、 ヨハクの反応をじっと見守っている。



「バルトを知っているのか、俺も昨日名前を知ったばかりなのだが」


霧の声が続いた。


「……バルドか。 ああ、知っているとも。

三日前の朝……あの男はここを通った。

荷馬車を引き、強気な顔で『大儲けだ』と笑っていた。

……愚かな男だった。」


リーダーの狼は首を軽く傾げ、赤い目でヨハクをまっすぐ捉えた。


「その匂い……お前はギルドの冒険者だな。

バルドの妻に頼まれて、遺品を探しに来たのか?

それとも……ただの好奇心か?」


狼の声には、嘲るような響きと、どこか興味深げな色が混ざっていた。


周囲の霧がゆっくりと渦を巻き、 五匹の狼はまだ完全に敵意を解いていないが、 すぐに飛びかかってくる気配はない。 馬は少し離れたところで、息を荒げながらこちらを見つめている。


リーダーの狼は静かに、ヨハクの次の言葉を待っている。



「ああ、そうだ。ギルドの者だ。商人の妻から捜索依頼でな。生きていれば連れ帰るし、亡くなっているのなら…まぁ、その証だな。」



ヨハクがそう言うと、リーダーの黒狼は赤い目を細め、 霧の声で低く笑うような響きを返した。



「……ふむ。妻の頼みか。 人間らしい感傷だな。」


少し笑ったような気がする。


「襲ってくる様子がない所を見ると、バルトをやったのはお前たちではなさそうだが… 違うか?」 



狼はゆっくりと首を振り、牙を少しだけ覗かせた。

一瞬の沈黙の後、リーダーの狼は喉を深く鳴らした。

その声には、わずかな苛立ちと、どこか嘲るような

響きが混ざっている。



「……違う。 私たちがあの男を殺したわけではない。

確かにここで襲ったのは私たちの群れだ。

馬車を止め、荷物を漁り、馬を追い散らした……

しかし、バルド本人は……逃げた。」



狼は前足を一歩踏み出し、赤い目でヨハクをまっすぐ見つめた。


「私たちは人間の肉など旨くない。 金や布、食べ物……

それだけが目的だった。 だが、あの男は荷物を捨てて森の奥へ逃げ込んだ。 私たちは追いかけたが、途中で……別の気配に邪魔された。」



リーダーの狼は周囲の霧を軽く揺らし、声を少し低くした。



「……もっと強い、もっと貪欲な何かだ。

黒い影……私たち霧狼ですら、近づくのをためらう存在。

バルドはそこで捕らわれたはずだ。 生きているかどうかは……

わからん。 ただ、血の匂いが濃く残っていた。」



他の狼も、低く唸りながら同意するように頭を動かした。

リーダーの狼はヨハクをじっと見つめ、静かに続けた。



「どうする、冒険者……ヨハク。 ここで引き返すか?

それとも、あの『黒い影』の領域へ足を踏み入れるつもりか?

……正直に言おう。 お前一人では、かなり厳しいぞ。」


霧がゆっくりと渦を巻き、 五匹の赤い目が

静かにヨハクの決断を待っている。



「そうか。」



剣を鞘に収め、盾も構えを解いた。

敵意を完全に解き、静かに言葉を続ける。



「人を食わぬのなら剣を抜く必要もあるまい。

狙いが食い物というのは理解できるが…

金と布などどうするのだ?」



リーダーの黒狼は、ヨハクが武器を収めたのを見て、赤い目をわずかに細めた。 霧の声が、低く、どこか面白がるような響きを帯びて返ってくる。



「……ほう。 信用するのか、人間。 珍しいな……」



狼は前足を軽く踏み鳴らし、喉を深く鳴らした。 他の四匹も、囲みをさらに緩め、座るような姿勢を取る。



「信用というか、まぁ、お前たちが襲おうと思うなら

既に飛びかかっているだろう?ただの状況判断だ。」



そう言うと、リーダーの黒狼は低く喉を鳴らし

まるで笑うような響きを霧の声で返した。



「……ふっ。 賢い判断だ、人間。 その通り……

私たちが本気で襲うつもりなら、 お前が剣を抜く前に

喉を掻き切っていた。」



狼はゆっくりと立ち上がり、赤い目を細めてヨハクを見つめた。 他の四匹も、軽く体を起こして耳をピクピク動かしている。


ヨハクは剣を収めたまま、ゆっくりと壊れた荷物の残骸の方へ近づき、確認しながら続けた。



「で、何故襲った?食い物というのは…まぁわかる。

だが、金や布など狼が何に使う?」


リーダーの黒狼が冷たい声で答える


「金と布……そうだな。 私たち自身が使うわけではない。

しかし、この森の奥に住む『影の主』に捧げるための貢物だ。

影の主は人間の作った輝くものや、柔らかい布を好む。

それらを捧げれば……私たちの領域を侵さないでくれる。

あるいは、時折、力を貸してくれる……そんな取引だ。」



首を軽く傾げ、霧をゆっくりと吐き出しながら続ける



「バルドの荷物は、ちょうどいい貢物だった。

しかし、あの男自身は……影の主の領域へ逃げ込んだ。

私たちはそこまで追わなかった。 影の主の領域に入った者は

まず生きて戻れぬ…… たとえ私たちでも、深入りは避ける。」



狼はヨハクをじっと見つめ、声にわずかな警告を込めた。



「金や布は、影の主にとっては『玩具』のようなものだ。

人間の欲や執着が染みついたものが、特に好まれるらしい。

……お前も、もし奥へ行くなら、貢物を持っていくといい。 輝くもの、柔らかい布……それがあれば、少しは時間を稼げるかもしれない。」



周囲の霧が少し薄くなり、 五匹の狼は完全に座り込み、

警戒をかなり解いた様子だ。 リーダーの狼は赤い目を

柔らかく光らせながら、ヨハクの次の言葉を待っている。



「確認だが、お前たちは荷馬車は襲ったが、

バルト自身は襲ってない、そうだな?」


リーダーの狼は一瞬沈黙し、霧を軽く吐き出してから答えた。


「……そうだ。 私たちは馬車を止め、荷物を漁った。

バルドは恐怖のあまり荷物を放り出して、 森の奥……

影の主の領域へと逃げ込んだだけだ。

私たちはそこで追うのを止めた。

あの領域は、私たちにとっても危険すぎる。」


狼は壊れた木箱の破片を前足で軽く突きながら、続けた。


「荷馬車の中身は……金貨の入った袋、絹の布、

香辛料の壺などだった。 ほとんどを影の主への貢物として

持ち帰ったが、 いくつかはここに散らばったままになって

いる。 バルド本人は……少なくとも私たちの牙では傷つけていない。」



リーダーの狼はヨハクが荷物の残骸を調べるのを

静かに見守っていた。 その赤い目には、好奇心と、

わずかな警戒がまだ残っている。


壊れた荷物のそばには、 血痕の他に、バルドのものと思われる

革の靴の片方と、 引き裂かれた上着の袖が落ちていた。

血の量は多くはないが、明らかに何かに追われて

逃げた痕跡が残っている。


霧が少しずつ薄れ始め、 朝の光が木々の間から差し込み始めていた。


リーダーの狼は低く言った。



「……どうする、ヨハク。 ここで引き返すか?

それとも、影の主の領域へ足を踏み入れる覚悟はあるか?

もし進むなら……貢物を持っていくことを勧める。

輝くものか、柔らかい布……それがあれば、少しは話が通じるかもしれない。」


五匹の狼は今や完全に座り込み、 ヨハクを囲む形ではなく

ただ静かに見守る姿勢になっていた。


顔を上げ、唐突に影狼たちに語りかける



「お前たち、名はあるか?腹は減ってないか?」



そう声をかけると、リーダーの黒狼は一瞬

赤い目を大きく見開いた。

まるで予想外の言葉だったかのように

喉の奥で低く唸るような音を漏らす。



「……名、か。」



狼はゆっくりと頭を傾げ、霧の声で答えた。


「私は……『ヴェール』と呼ばれている。

この群れの長だ。 他の者たちは……

それぞれに古い呼び名を持っているが

人間に教えるつもりはない」


ヴェールはヨハクの次の言葉——「腹は減ってないか?」——を聞くと、 再び低く喉を鳴らした。今度は、どこか楽しげな響きが混ざっている。

 


「……ふっ。 人間が霧狼に食事を気遣うとは……珍しい。

腹は減っていない。 昨夜、鹿を一頭仕留めたばかりだ。

心配してくれるとは……お前は本当に変わった冒険者だな、ヨハク。」



ヴェールがそう言っている間に、ヨハクは壊れた荷物の残骸に近づき、慎重に探し始めた。


散らばった木箱の破片をどかし、引き裂かれた布をめくり、 地面に落ちた金貨の残りや、香辛料の壺の欠片を調べる。


血痕のそばには、バルドのものと思われる革の小袋が転がっていた。 中を開けると、数枚の銀貨と、妻への手紙らしき羊皮紙の切れ端が出てきた。


手紙は血で汚れていて、ほとんど読めないが、最後の数文字だけが辛うじて残っている。


【……愛する妻へ……必ず帰る……】


他に目立ったものは、 比較的綺麗な絹の布の切れ端と、

小さな真鍮の指輪が一つ落ちていた。

指輪には簡素な花の模様が彫られている。


ヴェールはヨハクが荷物を漁るのを、座ったまま静かに

見守っていた。 他の四匹の狼も、興味深げに耳を動かしている。


ヴェールが低く言った。



「……その指輪は、バルドが落としていったものだ。

妻からの贈り物だったらしい。 ……持って帰ればいい。

証拠になるはずだ。」



ヴェールは少し間を置いてから、続けた。


「影の主の領域は、この先の森のさらに奥…

『黒霧の谷』と呼ばれる場所だ。 昼間でも常に霧が濃く、

木々が異様に絡み合っている。 もし本当に進むつもりなら、

貢物を持っていくがいい。 その絹の切れ端や、輝く金貨……

それがあれば、少しは時間を稼げるかもしれない。」



五匹の狼は今や完全に警戒を解き、 ヨハクが荷物を調べるのを穏やかに見つめている。



「ヴェール、覚えておこう、賢き狼の長。」



そう言いながら、地面に落ちていた真鍮の指輪(花の模様が彫られたもの)と、血で汚れた羊皮紙の切れ端、残っていた数枚の銀貨を丁寧に拾い上げ、革の小袋にそれらをしまい、腰袋にしっかり収める。



「……ふっ。 賢い狼、か。 そう言われたのは久しぶりだ。」



ヴェールはヨハクの言葉を聞いて、赤い目を細め

低く満足げに喉を鳴らした。


ゆっくり立ち上がり、痕跡が続いている森の奥の方を睨む



「まだ生きてるかもしれんからな、生死を確認せねば。

バルトの行った方向に行ってみるとする。

貢物で気をなだめてくれるといいのだがな……どうする?

お前たちも来るか?礼にできることと言えば包んでもらった干し肉程度しかないが」



ヴェールは一瞬、霧の奥で目を輝かせ、 低く、

しかしはっきりとした声で答えた。



「……面白い提案だ、ヨハク。 私たち霧狼が、人間の冒険者に同行するなど…… 数百年ぶりのことかもしれない。」


彼は前足を一歩踏み出し赤い目でヨハクをまっすぐ見つめた。


「干し肉などいらぬ。 私たちは今、腹は満たされている。 ……ただ、お前が『生きているかもしれない』と言うバルドの生死を、 私も少し気になり始めた。 影の主が人間をどう扱うのか私たちも長く知りたかったことだ。」



ヴェールは他の四匹の狼に軽く視線を送り、 彼らは一斉に小さく唸って頷くような仕草をした。



「よかろう。 ここから『黒霧の谷』までは私たちが先導しよう。 ただし…… 影の主の領域の入り口までだ。 それより奥は、私たちも深入りせぬ。 そこからはお前一人だ。」



ヴェールは体を翻し、森の奥へ続く細い獣道を指すように鼻を向けた。



「貢物は持っていくといい。 その絹の切れ端と銀貨……十分だ。 影の主は『人間の執着』が染みついたものを好む。 妻への想いが残る指輪や手紙の切れ端も、効果があるかもしれない。」



彼はゆっくりと歩き始め、 他の四匹の狼も静かにヨハクを囲むように並んだ。 先頭のヴェールが振り返り、霧の声で言った。



「……行くぞ、ヨハク。 昼の間はまだ霧が薄い。 早く動いた方がいい。」



馬は少し落ち着きを取り戻し、 ヨハクが手綱を取ると

素直についてくる気配を見せた。


黒い森の奥へと、ヴェールたちと共に進み始める。



「生きているといいんだがな…」

 


返事はなく、言葉は森の静寂の中に吸い込まれていった。


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