事件現場
ヨハクは馬の手綱を軽く引き、霧の濃い曲がり角から
少し離れた開けた場所まで後退させた。
馬の鼻息が白く立ち上る中、長剣を腰に固定したまま、
慎重に荷馬車の残骸の方に近づく。
妙な湿り気のある空気が滞留している。
足音を殺し、地面の落ち葉を踏まないよう注意しながら、
散らばった破片のそばに膝をつく。
馬車の車輪の跡は深く、馬が暴れたような乱れた線を
描いている。
木箱の破片は無理矢理引き裂いたようで、 中身と思われる布包みや陶器の欠片が周囲に飛び散っていた。 引き裂かれた布の切れ端には、商人らしい上質な刺繍の残骸が残っている。
三日ほど前、バルドがここに来たのは間違いなさそうだ。
さらに少し奥へ進むと、茂みの奥に大きな足跡がいくつかある。 狼のものより一回り大きく、爪の跡が鋭く地面を抉っている。
足跡は三匹分……いや、四匹か。 群れで襲ったらしい。
足跡は道から森の奥へと続いており、 わずかな血の跡が点々と落ちている。
「こりゃ本当に普通の狼じゃないな」
その時、霧の奥から低い唸り声が聞こえた。
はっきりとした、複数の気配。
木々の間を、影のようなものがゆっくりと動いている。
赤い目が一瞬、霧の中で光った。
馬が遠くでいななき、蹄を地面に強く打ちつけて
警戒を強めている。
空気が冷たく張りつめ、朝の鳥の声は完全に消えていた。
長剣を静かに抜き、朝の光に刃を軽く輝かせながら
警戒を最大限に高めた。
左手に盾を構え、右手で時折地面の痕跡を確かめつつ
ゆっくりと慎重に進む。
血痕のそばにしゃがみ込み、指で土を軽く掘ってみる。
血は土に染み込んでいて、指先にわずかな粘り気を感じる。
引き裂かれた木箱の破片を拾い上げると、爪で深く抉られたような傷がいくつも残っている。
人間のものではない。 狼の爪よりも太く、力強い。
足跡をさらに追うと、森の奥へ続く一本の太い血の線が続いている
何かを引きずったような跡も混じっている。
馬車の荷物の一部か……それとも……。
その時、霧の奥から再び、低い唸り声が響いた。
今度ははっきりと三方向から。
木々の影がゆっくりと動き、 赤く光る目が四組……
いや、五組に増えた。
一匹がゆっくりと姿を現す。
(でかい…)
普通の狼より一回り大きく、体毛は黒く濡れたように光り
肩のあたりに薄い霧のようなものがまとわりついている。
(同時に来られたら、何もできんぞ)
目が血のように赤く、牙を少し覗かせて低く唸っている。
他の影も、左右と背後からじりじりと距離を詰めてくる気配だ。
馬が後方で激しくいななき、縄を引っぱって逃げ出そうとしている。
空気が重く冷たく、朝の光さえも霧に飲まれて薄暗く感じられる。
剣を構えたまま、息がわずかに白く立つ。
素早く盾を体に引きつけ、剣の切っ先を軽く前に向けながら
ゆっくりと息を整え、目の前の影をじっと観察する。
現れた黒い狼は、確かにただの獣ではなかった。
体長は大型の狼を大きく超え、肩の高さは大人の胸元ほどもある。
濡れたような黒い毛並みの間から、薄い霧のようなものが
ゆっくりと立ち上り、 その霧が周囲の空気を冷たく淀ませている。
赤い目は知性めいた光を宿し、牙を剥き出しにした口元からは、 よだれではなく淡い煙のようなものが漏れていた。
残りの四匹も、木々の間から姿を現し始めた。
一匹は左の茂みから、もう一匹は道の反対側から
背後の一匹は低く這うように近づいてくる。
群れは連携しているようで、 ヨハクを囲む円をゆっくりと狭めている。
特にリーダー格と思われる一番大きな個体は、 ヨハクの盾と
剣をじっと見つめ低く唸りながら一歩踏み出した。
その動きは獣というより、獲物を試すような計算されたものだった。
馬は後方で激しく暴れ、縄を引っぱって逃げ出そうとしているが、 幸いまだ縄は切れていない
霧が少し濃くなり、視界がさらに狭まる。
空気が冷たく、重く、 ヨハクの息が白く立ち上る中、
五匹の赤い目が一斉にヨハクを捉えていた。
知性を感じる… 盾をしっかりと構え、剣の切っ先を微かに動かしながら、低く呟いた。
「狼…? 魔物…?」
その声が霧の中に溶け込むと同時に、一番大きなリーダー格の黒狼が、 ゆっくりと頭を傾げた。
(ん?言葉に… 反応した??いや、まさか。)
赤い目が、ヨハクの顔をまっすぐ捉え、まるで言葉の意味を理解したかのように、 一瞬だけ光を強めた。
「できれば見逃しちゃくれませんかねぇ…」
そう呟くと、霧の中にいた五匹の黒狼の動きが
ぴたりと止まった。静かにヨハクを観察し返している。
リーダーの狼は低く喉を鳴らし、その音が不思議と
「興味」や「評価」のような響きを持っていた。
他の四匹も、リーダーの動きに合わせて少しずつ位置を調整し、
完全に囲む形を保ちながらも、すぐには飛びかかってこない。
霧がゆっくりと渦を巻き、 狼たちの体にまとわりつく淡い煙が、まるで生き物のように蠢いている。
一番近い狼が一歩だけ前へ踏み出し、鼻を軽く動かしてヨハクの匂いを嗅いだ。
その目は確かに、ただの獣のそれではなかった。
知性……いや、もっと何か、 古い呪いや魔物の気配のようなものが感じられる。
リーダーの狼が、再び低く唸った。
その唸り声は、まるで「誰だ、お前は」と
問いかけているようにも聞こえた。
五匹の赤い目が、ヨハクの盾と剣、そして顔を
じっと見つめ続けている。
リーダー格の一番大きな狼が、ゆっくりと頭を上げ、
赤い目を細めてヨハクをまっすぐ見つめた。
その視線は、ただの獣のものとは明らかに違っていた。
まるで「驚き」と「興味」を同時に浮かべているようだ。
「おいおい、まさか、通じてんのか。」
一瞬の沈黙の後、リーダーの狼は低く喉を鳴らす。
その唸り声は、いつもの獣の威嚇とは違う……
どこか、言葉を紡ごうとしているような、
複雑な響きとなって聞こえてくる。
やがて、狼の口元から淡い黒い霧がゆっくりと立ち上り
その霧が空気の中で形を成し始めた。
……ぼんやりとした、人の声のようなものが、霧の中から響いてくる。
「……ふむ…… 久しぶりに……人の言葉を……理解する者が現れたな……」




