宿屋「渡し場の灯り」②
適当なテーブルに杯を置いて腰を下ろす。
シチューを待ちわびる腹の音が響いた。
気まずい思いをしながら、誰かに聞かれなかったから見渡してみる。
奥のテーブルの商人たちは酒を飲みこちらを気にしてなどいない
「我らが大儲けにかんぱーい!」
「ほどほどにしとけよ、このままいけば夜にはセルリアンに着けるんだからな」
「大丈夫だって、お前は心配しすぎなんだよ。ま、それが良いところでもあるがな」
「狼よけの護符はあるし、馬に鈴はつけてるけど、それでも絶対じゃないんだ。」
「平気だろ、もうあの“黒い森の曲がり角”は抜けたんだ、あとは普通の街道だって」
「お前、最近、護符……効かなかったって話、聞かなかったか?」
「はっ、またその話か、お前はビビってるだけだって。商人はたまには度胸もいるもんだぜ」
(気楽なもんだな…)
ヨハクはそう思いながらシチューを待つ
主人が厨房から顔を出し、大きな声で言った。
「シチューができたぜ、冒険者さん! ワインもおかわりするかい?」
食堂の木のテーブルは温かく、 暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てている。
ヨハクが軽く頷くと、主人が大きな木の器にたっぷりと鹿のシチューをよそい、焼きたてのパンとチーズを添えて運んでくる。
「ほら、熱いうちに食えよ。 鹿肉は今日の朝に獲れた新鮮なやつだぜ。」
シチューは濃厚で、野菜と香草のいい香りが立ち上り、 一口含むと、柔らかい肉の旨味がじんわりと広がった。 パンをちぎって浸しながら食べていると、体がゆっくりと温まっていく。
主人はヨハクの向かいに腰を下ろし、 自分で注いだワインを一口飲みながら、自然と話し始めた。
「バルドさんのことだが…… あの人、実はこの街道を何度も往復してたんだよ。 いつもは護衛を連れてたんだけど、今回は『金が惜しい』って一人で来たらしい。 俺も『危ねえぞ』って止めたんだが、笑って聞きやしなかった。」
暖炉の火を眺めて遠くを見るような目をしながら、声を少し低くした。
「狼の群れの話は色々と出てる。 先月なんか、衛兵が二、三匹仕留めたけど、 死骸が朝には消えてたって話だぜ…… 魔物なんじゃないかってもっぱらの噂になってる」
ワインをもう一口飲み、肩をすくめた。
「まぁ、あんたみたいな冒険者なら大丈夫だと思うが、 黒い森の曲がり角は本当に気をつけろよ。 そこはいつも霧が濃くて、視界が悪い。 何が潜んでてもおかしかねぇ」
ヨハクがシチューを食べているのを眺めながら、ふと優しい笑みを浮かべた。
「ゆっくり食えよ。 明日の朝は早いんだろ? 何か他に気になることがあったら、遠慮なく聞いてくれ。 俺も夜は暇だから、付き合うぜ。」
こちらを見ずにまたワインを一口
シチューをスプーンで口に運びながら尋ねる
「バルトが雇ってた護衛はいつも決まった人間だったか?それとも毎回違ってたか?」
食いながら喋るな、などと無作法を煩く言う人間など
この場にはいない。主人はワインの杯を軽く回しながら
記憶をたどるように天井を仰いだ。
「バルドが雇ってた護衛か…… そうだな、いつも決まった人間じゃなかったと思うぜ。 何度か顔を見たことはあるが、毎回違う奴だったよ。」
少し声を低くし、暖炉の火を見つめながら続けた。
「一回目は若い剣士の男で、 二回目は槍を持った恰幅のいい男、 三回目は……確か、女の弓使いだったな。 短い茶髪で、目つきが鋭くて、 バルドの馬車の横をずっと黙って歩いてたのを覚えてる。 でも、今回はいなかった『金がもったいない』って笑ってたよ。」
肩を軽くすくめ、ワインを一口飲んだ。
「バルドは『護衛は信用できる奴じゃなきゃダメだ』って言ってたけど、 結局は毎回違う人間を雇ってたみたいだな。 信頼できる固定の護衛がいれば、もっと安全だったんだろうが…… まあ、商人は金にうるさいからな。」
主人はヨハクがシチューを食べているのを眺めながら、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、最後にここに来た時、 バルドは少し機嫌が悪そうだった。 『護衛の奴が急に値上げをしやがった』って愚痴をこぼしてたよ。 それで一人で来たんだろうな。」
暖炉の火がパチパチと音を立て、 シチューの香りとワインの芳醇な匂いが、宿屋の中に優しく広がっている。 外はすっかり夜の静けさに包まれ、川のせせらぎだけが穏やかに響いていた。
主人はヨハクの杯にワインを注ぎ足しながら、 静かに次の言葉を待っている。
「……そうか、急に護衛がつかなくなったのか。なるほどな」
小さく呟きながら、残りのシチューを丁寧に平らげた。 濃厚な鹿肉の旨味と、香草の風味が最後のひと口までしっかりと感じられ、 体の中がじんわりと温かくなる。
焼きたてのパンで器の底を拭うようにして食べ終えると、満足感が胸に広がった。
主人はヨハクの空になった木の器を見て、満足げに頷いた。
「うん、よく食ったな。 腹がいっぱいになると、明日の朝も元気に出られるだろう。」
主人が器を下げながら、ワインの瓶を軽く振って残りを確かめた。
「 最近この街道の狼が本格的に危険視されるようになたからな。 護衛も『報酬に見合わねえ』って断る奴が増えたらしい。 バルドはそれでも『大丈夫だ』って強がってたけど……結局、一人で来ちまった。」
主人はカウンターに戻りながら、背中越しに言った。
「明日の朝は日の出前に起こしてやるよ。 干し肉とパンをたっぷり包んで、水も新鮮なのを入れておく。 何か他に必要なものがあれば、今のうちに言ってくれ。」
暖炉の火は少し小さくなり、 宿屋の中は柔らかな橙色の光と、静かな落ち着きに包まれている。 ワインの余韻が体を優しく温め、 外からは川のせせらぎと、夜風に揺れる木々の音だけが聞こえてくる。
夕飯を終えた今、 体はすっかり温まり、明日の早い出発に備えてゆっくり休めそうな気分だ。
残りのワインをゆっくりと飲み干す。 深い赤色の液体が喉を通るたび、ほのかな酸味と果実の香りが体を優しく包む。
杯をテーブルに置くと、軽い満足感と、明日の早い出発を意識した気持ちが胸に広がった。
「……時間が経ちすぎたら痕跡もなくなってしまうだろうしな」
小さく独り言のように呟きながら、席を立つ
主人はカウンターから顔を上げ、にこやかに声をかけてきた。
「もう休むか。 いい判断だよ、冒険者さん。 明日は早いんだから、しっかり寝ておけ。」
主人は暖炉の火を少し小さくしながら、背中越しに続けた。
「部屋の鍵はしっかり閉めてな。 夜中に狼の遠吠えが聞こえることもあるが、 ここは川に面してるから大丈夫だと思うぜ。 朝は日の出前に起こして、朝食の包みも用意しておくよ。」
階段を上り、二階の角部屋に戻る。 木の床板が軽く軋む音が、静かな夜に響いた。
部屋に入ると、窓から差し込む月明かりが淡く床を照らしている。 川のせせらぎが絶え間なく聞こえ、遠くで夜鳥が一声、鳴いた。 ベッドの毛布は少し粗いが厚く、枕は干し草の柔らかな香りがした。
革鎧を脱ぎ、剣をベッドの横に立てかけ、 体を横たえる。 ワインの温かな余韻と、シチューの満腹感が、疲れを優しく溶かしていく。
外では、夜風が木々を揺らし、 時折、遠くから狼の遠吠えのようなものがかすかに聞こえてくる…… それとも、ただの風の音か。
意識がゆっくりと沈んでいった




