紺碧の追放者(エグザイル)、あるいは聖域を焼き払う「青いダイヤモンド」への葬列
パリの冬。その静謐は、鋭利な剃刀のように僕の肺胞を切り裂き、無機質な暴力となって降り積もる。
セーヌ川の濁った水面を見つめながら、僕は自嘲の笑みを零した。
ニューヨーク。ブルーノート・ワークショップ。
そこは、選ばれし者だけが許される、ジャズの神託を授かるための揺り籠だ。シャルル・オクレールという、音楽の真理を解き明かした蒐集家が統べる、完璧な聖域。
だが、メグ・ポッターにとって、その聖域はただの「退屈な鳥籠」に過ぎなかったらしい。
「……あは。キミ。またそんな、地獄の門番が算数に失敗したみたいな顔をして」
耳底に響く幻聴。
彼女は、オクレールが差し出したテンション・コードの深淵を覗き込み、そのすべてを「戯言」として解体し、そして逃げ出した。
僕がどれほど渇望しても辿り着けなかった、論理の最果て。そこを彼女は、裸足で駆け抜け、泥を撥ね、嘲笑いながら走り去ったのだ。
僕は、アパートの自室で Fender Rhodes の鍵盤を叩いた。
歪んだ音色が、冷え切った部屋に反響する。
メグ・ポッター。
お前は、僕という座標からも、オクレールという真理からも自由になり、どこへ向かおうというんだ。
「……ショーン。彼女の音は、もうここにはない」
受話器の向こうで、オクレールは寂しげに、だがどこか悦びを孕んだ声で告げた。
彼女がワークショップを去る間際に見せたという、即興演奏。
それは、既存のあらゆるジャズ理論を完膚なきまでに破壊し、再構築した、神への反逆そのものだったという。
「野生の宝石」は、磨かれることを拒絶し、自ら輝くことを選んだ。
僕は、マルレの練習場へと足を向けた。
練習場を埋め尽くす、フランス人プレイヤーたちの視線。
リード・アルトのトーマス・シモン。ハイノート・ヒッターのノエミ・ルブラン。
彼らは、僕が提示する「完璧な設計図」を待っている。僕が論理という名の手綱を引き、彼らを統率することを。
だが、僕の中に、もう「統率」すべき意志など残っていなかった。
メグが残した、あの不規則なポリリズム。
僕の論理という名の積み木を、あまりにも軽やかに蹴り飛ばした、あの「ノイズ」。
それがない世界で、僕は、何を目指せばいい。
僕は、譜面台の上のスコアを、無造作に床へぶちまけた。
「……ショーン!?」
ノエミが叫び、シモンが立ち上がる。
静謐な練習場に、乾いた紙の音が響く。
それは、僕と彼女が過ごした「論理の時代」の、終焉を告げる葬奏曲だった。
「……設計図は、もういらない。僕たちは今、この瞬間から、ただの『ノイズ』になる」
僕の言葉に、団員たちが凍りつく。
完璧主義者のショーン・ハミルトン。ジャズを数学と公言した男の、あまりにも無残な敗北宣言。
あるいは、新しい地獄への招待状。
僕は、彼らに背を向け、窓の外に広がるパリの街を睨みつけた。
ニューヨークでオクレールを振り切り、夜の摩天楼に溶けた、あの青白い肌の少女。
彼女は、僕という安全圏を捨て、本能のままに闇へと飛び込んだ。
そこは、論理も、数学も、完璧なスウィングも存在しない、ただの「深淵」だ。
お前は、そこで何を見る、メグ。
僕が作ったパスタの味も、僕が吐き出した冷笑的な言葉も、すべて置き去りにして。
お前は、どこまで「自由」になれば気が済むんだ。
胸の奥が、焼け付くように熱い。
それは、嫉妬でも、怒りでもない。
ただ、彼女という「正解」を失い、広大なノイズの海に放り出された、一人のエリート学生の、惨めな慟哭だった。
「……あは。キミ。……音は、止まってくれませんよ」
彼女がかつて僕に刻んだ、呪いのような予言。
世界は、僕の不在を嘆くこともなく、ただ無機質なポリリズムを刻み続ける。
メグ。
お前が壊した世界を、僕がもう一度、僕自身の手で破壊する。
お前が選んだ「闇」と同じ深さまで、僕もまた、自らを堕としていく。
それが、僕にできる唯一の、そして最悪の「接続」の形だ。
僕は、床に散らばった譜面を一枚だけ拾い上げ、それを力任せに引き裂いた。
冬のパリ。
設計図を焼き捨てた炎が、僕の脳髄を白く染め上げていく。
メグ、待っていろ。
お前がどこへ逃げようと、僕はこのノイズの海を泳ぎ切り、お前という「絶望」を、もう一度僕の音楽の中に引きずり戻してやる。
お前を救うためではない。
僕が、僕という「欠陥品」を完成させるために。
雪が、すべてを覆い隠すように降り積もっていた。
僕たちの物語は、ここで一度、静かに息絶える。
だが、その骸の上で、僕は新しい「ブルー・ノート」を奏で始めるだろう。
お前を愛するために。
そして、お前を永遠に、僕の地獄の中に閉じ込めておくために。




