断絶の即興曲(インプロヴィゼーション)、あるいは神に背いた「野生の宝石」への鎮魂歌
断絶の即興曲、あるいは神に背いた「野生の宝石」への鎮魂歌
アパートの自室。目の前には、食べかけのパスタと、抜け殻のようなFender Rhodes。そして、僕がこれまで後生大事に積み上げてきた「論理」という名の積み木の残骸。
メグ・ポッターがニューヨークへ発った。
その事実は、僕の胸に風穴を開けるどころか、僕という存在の根幹を、音を立てて侵食し始めていた。
昨夜まであった隣室の音が、今朝から消えている。彼女のローズが奏でる深夜の断片も、ごろ太を抱いて廊下に座っている気配も、ケープコッドの塩タフィーの包み紙が舞う音も、何もかもが消えた。
「……静かすぎる」
呟いた声が、石造りの壁に吸い込まれた。
音楽家にとって、沈黙は休符ではない。文脈のない沈黙は、ただの欠落だ。
電話が鳴る。
発信者は、ニューヨーク・ブルーノート・ワークショップ。シャルル・オクレールという、音楽の真理を解き明かした蒐集家が告げた。
「ショーン。彼女は……メグは、ここにいない。レッスンにも現れず、街のノイズに溶けて消えてしまった」
衝撃はなかった。ただ、冷たい納得だけが僕の脳髄を支配した。
メグ・ポッターは、誰の型にも嵌まらない。たとえそれが、世界的な巨匠オクレールが提示した神聖なるテンション・コード理論であったとしても。
彼女は、楽譜という名の檻を、理論という名の鎖を、あまりにも軽やかに食いちぎって逃亡したのだ。
僕は、受話器を握りしめたまま、パリの冷えた窓ガラスに額を当てた。
メグ、お前はどこへ行った?
僕が作ったパスタの味も、僕が吐き出した冷笑的な言葉も、すべて置き去りにして、お前はどこまで「自由」になろうというんだ。
マルレの練習場へ向かう足取りは、重く、澱んでいる。常任ディレクター。その肩書きが、今は僕を縛り付ける呪縛にしか思えない。シモンもノエミも、僕の「合図」を待っている。僕が完璧な設計図を提示し、彼らを論理という名の手綱で制御することを期待している。
だが、今の僕に、何が描ける?
中心核を失った設計図など、ただの白紙と同じだ。
「……キミ。置いていきますよ。……音は、止まってくれませんから」
かつて彼女が吐いた残酷な予言が、現実となって僕の首筋を撫でる。
彼女は、僕という安全圏を捨て、本能のままに闇へと飛び込んだ。そこは、論理も、数学も、完璧なスウィングも存在しない、ただの「深淵」だ。そこでお前は、何を見ようとしている。
僕は、練習場の扉を乱暴に開けた。
集まった団員たちの視線が、僕の手に握られた、書きかけのスコアに集まる。そこには、僕の迷いと、彼女への執着が、醜いインクのシミとなって残っている。
「……始めよう。今日は、設計図を捨てる」
僕の言葉に、マルレのメンバーたちが困惑に揺れる。だが、そうしなければ、僕は彼女に届かない。
僕は、僕自身の存在を、一音のノイズに変える。
彼女が壊した世界を、僕もまた、僕自身の手で破壊する。その瓦礫の山の上で、もう一度、彼女と「接続」するために。
パリの冬。設計図を焼き捨てた炎が、僕の胸の中で静かに、だが烈しく燃え上がっていた。
メグ、待っていろ。お前がどこへ逃げようと、僕はこのノイズの海を泳ぎ切り、お前という「絶望」を、もう一度僕の音楽の中に引きずり戻してやる。
それが、僕にできる唯一の、そして最悪の「愛」の形だ。




