紺碧の境界線(ブルー・マージナル)、あるいは凍てつく「設計図」を焼き尽くす一等星の慈雨
目の前に広がるのは、父マックス・ハミルトンが遺した五線譜の山だ。
それは、音楽という名の宇宙を支配するための、完璧な「設計図」。僕はこの設計図をなぞるだけで、一生を安泰に過ごすことができたはずだった。
「ショーン。まだ迷ってるの?」
メグが、僕のそばに来てスコアを覗き込んだ。パリのアパルトマンの窓から差し込む冬の光が、彼女の青白い肌を透かしている。
「ああ、迷っているよ」
僕は否定しなかった。設計図を棄てるということは、僕自身の過去を、アイデンティティそのものを灰にするのと同義だ。もし、この設計図を棄てて音が鳴らなかったら、僕はただの空っぽの人間になる。
「でもね、メグ。この線はもう、僕たちの響きを制限している」
僕は立ち上がり、設計図の束を掴んだ。
窓を開ける。パリの冬の風が、薄い紙を激しく揺らす。僕は一枚、また一枚と、父の残した五線譜をその風の中に放った。白い紙が、セーヌの方角へ舞い上がり、石畳の上に散らばっていく。
燃やすのではなく、手放す。
それが、今の僕に相応しい別れ方だった。
「美しいね」
メグが、窓の外を見つめながら呟いた。
最後の一枚を手放した後、僕の脳内に鳴っていたはずの「完璧な理論」が、音を立てて崩れ去った気がした。だが同時に、その代わりに別の何かが——まだ形のない、名前のない音が——胸の中で鳴り始めた。
「これが僕たちの新しいスコアだ」
「うん。最高に美しく、最高に壊れた、まだ名前のない音」
僕たちは、空になった窓の前に並んで立った。父の設計図はもうない。だが、その不在こそが、今の僕たちに必要な余白だった。
設計図を手放した先にある、剥き出しの衝動。
それは、ボストンの泥濘でも、パリの石畳でも、変わらず鳴り続ける、僕たちだけのブルー・ノートだった。
もう、座標に縛られる必要はない。決別のポリリズムが、凍てついた境界線を突き破り、まだ誰も聴いたことのない「新世界」へと響き渡っていく。
僕たちは、もう戻らない。




