↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
96/138

紺碧の境界線(ブルー・マージナル)、あるいは凍てつく「設計図」を焼き尽くす一等星の慈雨

目の前に広がるのは、父マックス・ハミルトンが遺した五線譜の山だ。


それは、音楽という名の宇宙を支配するための、完璧な「設計図」。僕はこの設計図をなぞるだけで、一生を安泰に過ごすことができたはずだった。


「ショーン。まだ迷ってるの?」


メグが、僕のそばに来てスコアを覗き込んだ。パリのアパルトマンの窓から差し込む冬の光が、彼女の青白い肌を透かしている。


「ああ、迷っているよ」


僕は否定しなかった。設計図を棄てるということは、僕自身の過去を、アイデンティティそのものを灰にするのと同義だ。もし、この設計図を棄てて音が鳴らなかったら、僕はただの空っぽの人間になる。


「でもね、メグ。この線はもう、僕たちの響きを制限している」


僕は立ち上がり、設計図の束を掴んだ。


窓を開ける。パリの冬の風が、薄い紙を激しく揺らす。僕は一枚、また一枚と、父の残した五線譜をその風の中に放った。白い紙が、セーヌの方角へ舞い上がり、石畳の上に散らばっていく。


燃やすのではなく、手放す。


それが、今の僕に相応しい別れ方だった。


「美しいね」


メグが、窓の外を見つめながら呟いた。


最後の一枚を手放した後、僕の脳内に鳴っていたはずの「完璧な理論」が、音を立てて崩れ去った気がした。だが同時に、その代わりに別の何かが——まだ形のない、名前のない音が——胸の中で鳴り始めた。


「これが僕たちの新しいスコアだ」


「うん。最高に美しく、最高に壊れた、まだ名前のない音」


僕たちは、空になった窓の前に並んで立った。父の設計図はもうない。だが、その不在こそが、今の僕たちに必要な余白だった。


設計図を手放した先にある、剥き出しの衝動。


それは、ボストンの泥濘でも、パリの石畳でも、変わらず鳴り続ける、僕たちだけのブルー・ノートだった。


もう、座標に縛られる必要はない。決別のポリリズムが、凍てついた境界線を突き破り、まだ誰も聴いたことのない「新世界」へと響き渡っていく。


僕たちは、もう戻らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。