紺碧の侵食(ブルー・エモーション)、あるいは摩天楼を睥睨する「野生の宝石」の咆哮
パリの冬。その静謐は、鋭利な剃刀のように僕の肺胞を切り裂き、無機質な暴力となって降り積もる。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラという「伝統」の残骸を、僕は解体し、再構築した。完璧な設計図、冷徹なまでのモーダル・ジャズの再定義。だが、その構築物の中心で「青い炎」となってすべてを焼き尽くしたのは、僕の隣に座る欠陥だらけの傑作――メグ・ポッターだった。
「……あは。キミ。またそんな、地獄の門番が算数に失敗したみたいな顔をして」
部屋の隅。 Fender Rhodes の前に幽霊のように座るメグが、僕の思考の縁をなぞるように笑う。
彼女の青白い肌は冬の光に透け、その青い瞳は、僕が必死に組み上げた論理の城壁を、ただ眺めるだけで瓦礫へと変えてしまう。
定期公演の成功。それは僕にとっての「終着点」であるはずだった。だが、ニューヨークから届いた報せは、僕たちの均衡を無慈悲に破壊する。
ニューヨーク・ブルーノート・ワークショップ。
その総責任者、シャルル・オクレールが、メグを呼び寄せたのだ。
「メグ。……荷造りは終わったのか。ニューヨークへ行くんだろう。あのオクレールが、キミを『野生の宝石』と呼んで、わざわざ専用のカリキュラムを組んだんだぞ」
僕は冷え切った指先で、特製パスタのソースをかき回す。香ばしいガーリックの香りが狭いアパートの部屋に充満するが、僕の胃の腑は、まるで鉛を飲み込んだかのように重い。
「ニューヨーク……。……キミ。音楽は引っ越しじゃありませんよ。……それは、ただそこに『在る』べき響きなんです。キミがどれだけ頑丈な屋根を作っても、隙間から漏れてくる音を、あのおじいさんは捕まえようとしているだけです」
彼女は無造作に、それこそ鍵盤の上に埃が落ちるのと同じくらい自然な所作で、ローズのキーを叩いた。
濁った、それでいて真珠のような光沢を放つ不協和音が、僕の精密な理論を嘲笑う。
十年前のあの事故――空へ昇ることも、海を渡ることもできず、ボストンという「座標」に縫い止められていた僕を、ゴミ溜めのような部屋から引きずり出したのは、彼女の鳴らした圧倒的なジャズ・スタンダードだった。
それなのに。
僕は今、彼女という「野生」が、僕の設計図の外側へ羽ばたこうとするのを、恐怖の目で見つめている。
「……キミ。聞こえますか。……これが、私たちが欲しかったノイズですよ」
ピアノの余韻の中で、メグが静かに笑う。
奇声も上げず、ただ残酷なまでに純粋な笑み。
その瞬間、僕は悟った。
彼女はもう、僕の隣で「接続」を待つだけの少女ではない。
彼女は今、摩天楼の向こう側、ジャズという名の戦場へ、一人で足を踏み出そうとしている。
マルレの練習場では、コンマスのトーマス・シモンが、僕の提示した極めて緻密なスコアを前に、かつてない飢餓感を剥き出しにしていた。誇り高きフランス人プレイヤーたちが、僕のタクト――いや、僕の「意志」の動きひとつに、神経を尖らせている。
楽団は再生した。だが、その再生のきっかけとなった「毒」そのものであるメグは、ここにはいない。
僕は中央に立ち、冷徹な精度でアンサンブルを制御する。
だが、その完璧な設計図の中心に、ぽっかりと大きな「欠損」があった。
メグ・ポッターという名のノイズ。
彼女がいないマルレは、まるで魂を抜き取られた精巧な自動人形のように、冷たく、正しすぎる響きを奏でていた。
「……ッ!」
心臓が跳ねる。
脳裏をよぎるのは、オクレールが彼女に叩き込もうとしている高度なテンション・コード理論。
あの「野生」が、論理という翼を手に入れた時。
彼女は、僕の想像を遥かに絶する、暴力的なまでの「生」を解き放つだろう。
その時、僕は、彼女と同じ座標に立ち続けることができるのか?
「……キミ。置いていきますよ。……音は、止まってくれませんから」
かつて彼女がケープコッドの訛りとともに吐き出した言葉が、呪いのように耳底に響く。
敗北感。
そして、それ以上の法悦感。
僕の設計図が灰になった先で、僕たちは初めて同じ景色を見た。だが、その景色はあまりにも残酷で、美しい。
僕は、笑っていた。
冷笑でも、自嘲でもない。
圧倒的な才能という名の暴力に屈服しながら、それでもなお、彼女の背中を追い続けたいと願う、一人の音楽家の顔をして。
窓の外では、パリの冬の雨が、雪へと変わり始めていた。
設計図を失った僕の手に残ったのは、名前のない、だが永遠に鳴り止まない「共鳴」と、ニューヨークという未知の座標へ向かう彼女への、狂おしいほどの渇望だけだった。
「……メグ。せいぜい、向こうの連中を完膚なきまでに破壊してこい」
僕の呟きは、誰にも届かず、冷たいパリの空気に溶けていった。
設計図を焼き捨てた先にある、新しい音楽の夜明けを信じて。




