共鳴する孤独(レゾナンス・オブ・ソリチュード)、あるいは譜面を灰にする「絶対零度」の即興
パリの冬の朝は、まるで鋭利な外科用メスのように冷たく、僕の思考を無慈悲に削ぎ落としていく。
アパルトマンの窓外を眺めながら、僕は手元にある一冊のスコアを閉じた。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。
百五十年の歴史を持ちながら、マンネリという名の泥濘に沈みかけていたその巨大な「装置」を、僕は今、強引に解体し、再定義しようとしている。
僕の手にあるのは、緻密な計算と冷徹な和声で構築された、誰にも文句を言わせない完璧な設計図だ。
だが、その論理の城壁を、無邪気な笑み一つで瓦礫に変えてしまう存在が、すぐ隣の部屋にいる。
「……あは。キミ。またそんな、銀河の果てで迷子になったみたいな顔をして」
部屋の隅、テオが胃を痛めて手配した防音室の片隅で、メグ・ポッターが Fender Rhodes の前に座っていた。
その青白い肌と、死線のような青い瞳。
彼女は楽譜を読まない。理論を「戯言」として切り捨て、ただその天才的な「耳」だけを頼りに、世界の深淵を覗き込んでいる。
「メグ。……キミはいつまで、僕の譜面を『ノイズ』として扱い続けるつもりだ?」
「ノイズ? ……いいえ。キミ。これは窓ですよ。とっても素敵な、不協和音という名の空気が入ってくる窓。……キミの書く音は、正しすぎて息が詰まりそうでしたから」
彼女はそう言うと、無造作に鍵盤に指を置いた。
ローズ特有の、甘く、そして暴力的に歪んだ音色が、冬の朝の静寂を切り裂く。
それは僕が指定したテンション・コードとは似ても似つかない、だが、僕の心臓を確実に射抜く「真実」の響きだった。
僕は彼女の隣に立ち、その指先をじっと見つめる。
ボストンのゴミ溜めのような部屋で、初めて彼女の奏でる圧倒的なジャズ・スタンダードを聴いたあの日から、僕は常にこの瞬間に囚われている。
論理では解明できない、サヴァン的な「耳」が捉える宇宙。
僕がどれほど完璧なアンサンブルを構築しようとも、彼女の指が鍵盤に触れた瞬間に、それは全く別の意味を持ってしまうのだ。
「……マルレの連中は、キミのその『野生』を恐れている。だが、同時に飢えてもいるんだ。僕が用意したこの冷徹な舞台の上で、キミはどこまで踊れる?」
「どこまで? ……キミ。音楽には、果てなんてありませんよ。……ほら、『スペース・ごろ太』だって言っていました。銀河法典さえ、愛の前ではただの落書きに過ぎないって」
「……あのアニメの台詞を音楽理論に持ち込むなと、何度言えば理解するんだ」
僕は冷淡に吐き捨てたが、心の中では激しい焦燥感が渦巻いていた。
彼女に置いていかれる。
僕が彼女を「支配」しているのではなく、彼女という巨大な音楽の潮流に、僕がただ飲み込まれていくのではないかという恐怖。
それは、十年前の航空機事故で感じた、あの底なしの暗闇に近い感覚だった。
練習場へと向かう車中、僕はル・マルレの事務局長テオ・ベルナールが発した問いを反芻していた。
『ショーン。君は彼女を、マルレという伝統の中に閉じ込めておくつもりか?』
閉じ込める?
否。
僕はこの巨大なジャズ・オーケストラという名の精密機械を制御し、最適化するアレンジャーとしての矜持がある。
だが、その中心部には今、メグ・ポッターという制御不能なコアが組み込まれてしまった。
伝統と革新。
ボストンのバークリーで僕たちが始めたあの狂騒が、今、パリという歴史ある土地で爆発しようとしている。
練習場に着くと、コンマスのトーマス・シモンが、気難しいフランス人特有の皮肉な笑みを浮かべて待っていた。
彼は当初、僕という「ボストンの青二才」を激しく拒絶した。
だが、僕が提示したスコアが、彼の中に眠っていた「音楽への飢え」を呼び覚ましたのだ。
「ショーン。……準備はできている。あの『野生の宝石』が、俺たちのアンサンブルを壊す準備も含めてな」
「シモン。……壊されたなら、その瓦礫の上で踊るのがジャズだ。僕の指示を待つな。彼女の出す『ノイズ』に応答しろ」
僕は、オーケストラの中心に立つ。
目の前には、世界中から集まった精鋭たちが、それぞれの楽器を構えている。
そして、その中央に――。
所在なげに、だが圧倒的な存在感を放って、メグ・ポッターが座っていた。
僕は右手を静かに持ち上げた。
音楽を統べるための、細く、鋭い意志。
だが、僕が求めているのは、単なる統率ではない。
僕の設計図が、彼女という「爆薬」によって美しく粉砕されるその瞬間を、僕は誰よりも渇望しているのだ。
一拍。
沈黙が、真空のように世界を支配する。
そして――。
メグのピアノが、僕の合図をわずかに「超えて」鳴り響いた。
それは僕の計算を裏切り、だが、マルレという巨大な機械に、血の通った熱狂を吹き込む一撃。
不協和音が空間を支配し、伝統という名の皮録が剥がれ落ちていく。
僕は、自分の顔に冷笑的な笑みが浮かぶのを感じた。
そうだ。壊してみせろ、メグ。
僕が書いたこの完璧な牢獄を。
その先にある、誰にも予測できない「自由」という名の即興へ辿り着くために。
冬のパリ。
譜面を灰にしたその先で、僕たちは初めて、本物のジャズを鳴らし始めたのだ。




