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紺碧の解析不能(アン・アナライズド)、あるいは銀河の瓦礫の下で震える「青い傑作」への救済

パリの冬は、ボストンのそれとは違う湿った重みを伴って僕の肩に圧し掛かる。


ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。

再建という名の荒療治、その成功という輝かしい戦果を手にしながら、僕の胸に去来するのは勝利の凱歌ではなく、砂を噛むような焦燥感だった。

舞台袖の薄暗がりで、僕は自分の右手をじっと見つめる。

つい先ほどまで、あのアレンジャー用の細いペンを握り、音を統べていたはずの手。

だが、その指先は微かに震えていた。


「……あは。キミ。またそんな、計算式の答えが合わなかったみたいな顔をして」


背後から響いた、鈴の音を叩き壊したような声。

メグ・ポッターだ。

彼女は、僕が心血を注いで構築したモーダル・ジャズの設計図を、たった一回の本番で瓦礫の山に変えた張本人。

ローズの鍵盤を叩き、伝統あるマルレのサウンドを「解体」した野生の宝石。


「メグ。……キミのせいで、僕のスコアは今や宇宙のゴミ屑だ」


僕は、努めて冷笑的な言葉を吐き出した。

だが、彼女はそんな僕の言葉に傷つくどころか、むしろ世界そのものを祝福するような、無邪気で残酷な笑みを浮かべる。


「いいじゃないですか。宇宙のゴミは、光を反射してとっても綺麗なんですよ?……それに、キミ。答えなんて、最初からどこにも書いてなかったんです」


「黙れ。……答えなら、僕が書いたはずだ。この手に。この譜面に」


僕は、彼女の隣を通り過ぎようとした。

だが、彼女の放つ異質な静謐さが、僕の足を重くさせる。

ボストンのゴミ溜めのような部屋で出会ったあの日から、彼女は常に僕の「座標」を狂わせてきた。

論理と数学。ジャズを完全なる構造体として捉えていた僕の矜持は、彼女が奏でる「おなら・グルーヴ」や「もじゃもじゃ組曲」といった、解析不能なノイズの前に何度も敗北してきた。


楽屋へと向かう廊下。

そこには、僕たちの演奏に熱狂し、あるいは困惑した団員たちの残響が漂っている。

シモンも、ノエミも、テオも。

みんな、メグという巨大な「特異点」に飲み込まれ、新しい音楽の形を、半ば強制的に目撃させられたのだ。


「キミ。……怖がってるんですか?」


メグが、僕のコートの裾を指先でわずかにつまんだ。

その仕草は、ボストンで僕の「接続」を求めていた頃と同じ、幼い純粋さを孕んでいる。


「何がだ」


「私が、キミの知らない場所へ飛んでいっちゃうこと」


心臓が、不協和音のような一撃を食らった。

恐怖。そうだ。僕は、認めたくはなかったが、恐怖していた。

メグ・ポッターという才能が、僕の手の届かない高みへと、誰の導きも必要とせずに昇り詰めてしまうことを。

僕が彼女を「使う」のではなく、彼女という「音楽そのもの」に、僕が置いていかれることを。


僕は、彼女の手を振り払い、正面から彼女の青い瞳を射抜いた。


「自惚れるな、メグ。キミがどこへ行こうと、僕がその先で新しい『枠組み』を用意してやる。キミのノイズを、僕だけが完璧なアンサンブルとして成立させられるんだ。……世界で、僕だけがだ」


それは、傲慢な宣戦布告だった。

だが、それこそが僕に許された唯一の「接続」の方法だと、僕は知っていた。


メグは、一瞬だけ驚いたように瞳を揺らしたが、すぐに納得したように目を細めた。


「あは。……やっぱりキミは、救いようのない『王様』だ。……いいですよ。キミが作る牢獄なら、少しだけ入ってあげてもいいです。……ただし、美味しいパスタ付きで」


彼女は、ボストンから持ち込んだ薄汚れた『スペース・ごろ太』を抱き直し、軽やかな足取りで僕の前を歩き出した。

その背中は、かつてケープコッドの海辺で「音楽は楽しむもの」と笑っていた少女のそれであり、同時に、これから世界のジャズ界を蹂躙し、再構築していく怪物のそれでもあった。


僕は、彼女の背中を追いながら、自分のMacBookにインストールされた『メグ・フォント』のことを思い出していた。

解析不能な悪筆。ミミズが踊るようなリズム。

だが、そこには確かに、僕の論理では決して辿り着けない「真理」が記されている。


「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くパリのゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」


僕は、冷たい夜気に包まれたパリの街へと踏み出した。

マルレの成功は、まだ序章に過ぎない。

これから僕たちは、もっと深く、もっと残酷な音楽の深淵へと足を踏み入れることになる。

たとえその先で、僕の「論理」がすべて灰になろうとも。


「キミ! 急いでください! お腹と背中が、銀河の裏表くらいにくっつきそうなんです!」


夜の闇に響く、彼女の天真爛漫な声。

僕は、舌打ちを一つしながらも、自分の中に芽生えた抗いがたい高揚感を、冷笑的な笑みの下に隠した。


今夜の夕食は、最高級の食材を使った「ハミルトン・特製パスタ」だ。

世界で最も美しく、最も解析不能なノイズへの、僕なりの捧げものとして。

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