紺碧の特異点、あるいは全天を覆う「枯葉」の雨に溺れる夜
パリの石畳を叩く雨音さえも、今夜は四分の五拍子の変拍子を刻んでいるように聞こえる。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラの定期公演、その最終夜。
舞台袖の薄暗がりの中で、僕は愛用のギブソンのネックを無意識に強く握りしめていた。
手のひらに伝わるメイプルの冷たい質感だけが、今この瞬間、僕が辛うじて現実という名の「座標」に繋ぎ止められている証拠だった。
舞台の上では、一人の少女が、僕が心血を注いで組み上げたモーダル・ジャズの設計図を、完膚なきまでに破壊し、再構築していた。
メグ・ポッター。
かつてボストンのゴミ溜めのような部屋で、壊れた青い瞳をして僕を見上げていた野生の天才。
彼女は今、ニューヨークの名門ワークショップの総責任者オクレールが用意した「正装」としてのドレスさえもノイズに変え、フェンダー・ローズの前に鎮座している。
曲目は、『Autumn Leaves(枯葉)』。
誰もが知るそのスタンダード・ナンバーが、彼女の指先が鍵盤に触れた瞬間、聴衆の予感を裏切り、パリの夜空へと解き放たれた。
「……あは。キミ。世界は、こんなに多くの不協和音で満ちているんですよ」
リハーサルで彼女が浮かべた、無邪気で残酷な笑みが脳裏をよぎる。
彼女の奏でるイントロは、もはや秋の感傷などという生温いものではなかった。
それは、枯れ果てた葉が銀河の宇宙塵となって、重力さえも否定して吹き荒れるような、圧倒的な暴力。
僕は舞台中央に歩み出し、バンドに最初のキューを出した。
僕の役割は、この暴走する「青い特異点」を制御することではない。
彼女が撒き散らすノイズの欠片を一つ残らず拾い上げ、マルレという巨大な共鳴箱を通じて、聴衆の鼓膜へと叩き込むためのアレンジャーとしての責務だ。
セクションが咆哮する。
ノエミのトランペットが燃えるようなハイノートを叩き出し、シモンのリード・アルトが伝統の誇りを捨てて彼女の背後を追随する。
だが、メグは止まらない。
彼女の即興演奏は、既存のテンション・コード理論を軽々と飛び越え、音楽という概念そのものを解体していく。
ローズの歪んだ音色が、マルレの重厚なアンサンブルを切り裂き、そこに新しい「真理」を刻み込んでいく。
僕はギターを爪弾き、彼女のフレーズに冷笑的なカウンターをぶつけた。
完璧主義。論理と数学。僕がこれまで武装してきたすべてを、音の刃に変えて彼女に突き立てる。
(来い、メグ。キミの『接続』は、まだ解除されていないはずだ)
その瞬間だった。
メグの青い瞳が、舞台の照明を反射して怪しく輝く。
彼女は楽譜という設計図を完全に無視し、ローズのヴォリューム・ノブを限界まで回した。
フィードバック・ノイズ。
本来ならば「失敗」とされるその音が、彼女の手にかかれば、宇宙の産声のような、根源的な響きへと昇華される。
聴衆は、息をすることさえ忘れていた。
パリの保守的な批評家も、伝統を愛する老紳士も、今この瞬間、メグ・ポッターという名の「壊れた傑作」が鳴らす破壊的な美学に、魂を蹂躙されていた。
「キミ。……聞こえますか? 終わりの先にある、本物のスタンダードが」
彼女の指が、鍵盤の上でダンスを踊る。
それは、ボストンで僕たちが共に見た夢の続き。
飛行機恐怖症という鎖に縛られていた僕と、読譜という檻に閉じ込められていた彼女。
僕たちは、この「音」という名の逃避行の中でしか、本当の意味で自由になれなかったのだ。
アンサンブルが終焉へと向かう。
最後の一音が、パリの劇場の天井に吸い込まれ、完全なる沈黙が訪れる。
一秒。
二秒。
そして、爆発。
割れんばかりの喝采が、暴風雨のように僕たちを襲った。
ル・マルレの歴史において、これほどまでに無秩序で、これほどまでに官能的な「枯葉」が奏でられたことがあっただろうか。
僕は、汗にまみれた顔を上げ、メグを見た。
彼女は、演奏前と同じように、どこか遠く……銀河の果てでも見つめているかのような虚ろな表情で、ただ静かに立ち尽くしていた。
「……やれやれ。キミのせいで、マルレの寿命が十年は縮まったぞ、メグ」
僕は、誰にも聞こえない声で毒づいた。
だが、僕の心は、かつてないほどの充足感に満たされていた。
僕が目指した「欧州ジャズ界の革命」。その第一歩は、このゴミ溜めから来た少女の、あまりにも身勝手な「ノイズ」によって踏み出されたのだ。
「あは。……キミ。お腹、空きました。ハミルトン・特製パスタ……作ってくれますか?」
彼女は、大喝采のど真ん中で、いつもの無邪気な笑みを浮かべてそう言った。
世界を解体した後の、あまりにも日常的な、あまりにも愛おしい言葉。
「……ああ。キミの胃袋が納得するまで、いくらでも作ってやる」
僕はギブソンを背負い、彼女の手を引いて、パリの熱狂の渦から、僕たちの「座標」へと歩き出した。
外はまだ雨が降っている。
だが、僕たちの胸の中には、どんな嵐にも消えない、青く燃えるブルーノートが響き続けていた。




